愛すべきモナカアイス
昨日の天気とは打って変わって、今日は本当に穏やかな1日だった。もうだんだん世は夏の季節へと移行して行っているらしい。ゴールデンウィーク2日目、今日はただひたすら本を読む日にしようと決めていた。とりあえず溜まっていた服をクリーニングに出して、今日までに支払わなければならない税金関連を処理し(すっかり忘れてた)、そのついでにコンビニでアイスを買った。
じわじわくる暑さに耐えきれなくなったのである。コンビニのショーウィンドウの中には様々なタイプのアイスが売られているが、なぜか昔から私は四角いタイプのアイスに対してどうにも目がない。
気分によって変わってくるのだが、本日はモナカアイスを食べた。そういえば駄菓子屋さんでよく学校の帰りにかじっていた気がする。バニラアイスとほんのり硬い板チョコ、ゆるりと柔らかいモナカが絶妙なバランスで挟まっているのである。つい手を出してしまう。
どこかレトロっぽい感じも、結構好み。パリパリとした食感がどうにもクセになってしまう。
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家の近所にある図書館で、ずっと読むことを楽しみにしていた本を手に取る。表紙には、美味しそうなイチゴのアイスが洒落たお皿の上にセンスよく並べられた写真が添えられている。昨年の本屋大賞に選ばれた凪良ゆうさんの『流浪の月』。
表紙裏にはこう添えられている。
あなたと共にいることを、世界中の誰もが反対し、批判するはずだ。わたしを心配するからこそ、誰もがわたしの話に耳を傾けないだろう。それでも文、わたしはあなたのそばにいたい―。再会すべきではなかったかもしれない男女がもう一度出会ったとき、運命は周囲の人を巻き込みながら疾走を始める。新しい人間関係への旅立ちを描き、実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。
この説明書きを読んだ時はちょっとよくあるような御涙頂戴の王道ラブストーリーか何かだろうかと思ったが(最近若干食傷気味)、実際に読み始めると言葉がするすると脳の中を駆け巡っていく。新たな世界を開いたような気がしてくる。良作にあるような、時折カーンと小気味良いベルの音が鳴る感覚。
■ 羽のような自由さの喪失
そういえば自分が幼かった頃、よく親にあれをやってはいけないこれをやってはいけないと脅されたことを思い出す。スナック菓子は食べてはいけないだとかカップラーメンは食べてはいけないだとかクレヨンしんちゃんは見てはいけないだとか。
きっと親はみんなメディアか何かに煽動された育児書とルールブックを手に取って、事実かそうでないかの区別を持たぬまま子どもに対して不自由さを強いるのだと思う。
大人になって、自分が何でも好きなものを食べてもいいんだ!と思った時の開放感。でも困ったことに、人は選択を与えられる代わりにその分責任という名の枷を背負わされる。それが時に重荷になっていく。
■ 正常の裏の息苦しさ
相手に好かれたいとさえ願わなければ、人間関係に憂いはほとんど生まれない。(p.97)
時々自分以外の人間と接するとどうしようもない気怠さを感じてしまう時がある。それは相手が自分と異なる思考回路を持っていて、みんながみんなきっと自分は正常だと思っているが故の不協和音みたいなものなのかもしれない。そこに合わせようとすると、息をすることがしんどくなる。
本当は意見の合わない人の考えなんてどこかに放ってしまえばよいものの、一方で自分はひとりぼっちでは生きていくことができないことも自覚している。だからたとえ気が合わなくても、何とか相手に合わせて自分を合わせようと努力する。その全てを理論で片付けることができない苦しさ。
本作品の主人公である家内更紗は、両親の影響もあってかそうした日常を生きる上での矛盾みたいなものをはっきり自覚した上で何とか合わせていこうとする不器用な女性。もう少しそこは柔軟にやればいいのに、と客観的に見た第三者としての私は思うのだけれど、たぶん実際本人と同じ状況になったら同じ行動をしてしまう気がする。
■ ぽっかり空いた真っ黒な二つの穴
どこか満たされているようでいて、満たされない。大切に思われる、という言葉はなんてアンバランスな響きを持った言葉なのだろう。相手のことを思ってやっているのにといったある意味独りよがりな問いかけは時折空虚な響きしか持たない。
本当はみんな回りくどくいろんなことを先回りして考える必要もないのではと頭の中でぐるぐる考える。誰かのことを気遣ったふりしてかけた言葉は時にはその人にとっては別の意味を持つことを、この作品を通して改めて問いかけられた気がする。
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最後の結末を迎えた時、全てがうまく循環していく錯覚を覚えた。柔らかさと硬さが上手いバランスで組み合わさっているような。それは爽やかな風が吹く中で食べるモナカアイスの如く軽快に。無用な理不尽さだけではなく、そこにはきちんとした人との繋がりもあることを思い出して。