見えないからこそ、愛しい
つい先日まで、テレビに齧り付いたと言っても過言ではないくらい、私はただひたすらドラマを見続けていた。韓国ドラマである。この話はずっと前から誰かにその面白さを伝えたくて、もぞもぞしていたのだけれど、ぽつりぽつりと最近話をしたいなーと思って今回ようやくキーボードを打っている。
始まりは非常にわかりやすくて、ちょうどコロナくらいにみんながハマっていた『愛の不時着』を見たことだった。韓国ドラマは大体の始まりが、え、なに、そんなことってあるの!?という驚きから始まる。それから、尺が1話につき1時間半くらいあって、それが16話くらい続くのである。愛の不時着は、韓国の富豪(このシチュエーションも結構あるある。富豪が転落していくのとか)がある時北朝鮮側に落ちてしまうところから始まる。
誰かに伝え聞いたところによると、韓国ドラマ自体はすでに黄金テンプレらしきものがあるらしく、それに対して手を変え品を変え練り込まれる。これは小説を書くときにも応用できるなーと思ったのだが、ともあれ基本感情の揺さぶりがとても大きい。主人公たちが幸せな瞬間から一点不幸のどん底に陥れられ、そこからさまざまな障害を乗り越えてハッピーエンドを迎えるまでの物語。
これがインド映画であれば同じように尺が長いのだが、割と踊ってしまうと気がつけばどうにかなってしまっているパターンが多い。が、韓国ドラマはそれよりも何倍も尺が長いので、登場人物たちの背景などが事細かく、そしてそれは小出しにされていくので思わず引き込まれるのである(友人曰く、1話のドラマの終わりに出てくるエピソードがキュンポイントだそうな)
とまあ、ここまで前置きが長くなってしまったのだが、韓国ドラマの中でも特に私が好きなものがあって、それが『二十五、二十一』というドラマなのである。時は1988年、アジア通貨危機及びIMF経済危機下の韓国においてフェンシングの成績に悩む女子高生が主人公だ。そして彼女のそばにいるのはひょんなことで仲良くなった高校の先輩。
彼らの距離は近づいていくようで、適度な距離を持って接している。みているだけで、もどかしさがあるのだ。それと相まって興味を惹かれるのが、主人公のナ・ヒドが当時の大型のパソコンで見知らぬ相手とチャットでやり取りをする姿。お互い姿を確認することができないのだけれど、気がつけば姿が見えないながらも心の支えとなっているのである(その後、実はその見えない姿というのが彼女の犬猿の仲である人物であることが判明)。
その見えない相手とやり取りをするって、なんか楽しいよなぁと胸が弾む。それはもしかしたらこのnoteの世界に当てはまるかもしれないけれど。そのもどかしさ、というのはお互いが見えないからこそ本音を話し合うことができるものであって。それは特に二人しか入ることを許されないクローズな場であればあるほどその傾向は強まっていく。
カメラワークもとても良くて、3話か4話くらいはこんなもんかぁと思っていたけれど、回を重ねるごとによってどんどん次どんな展開が待ってるんだ、という状態が続いていく。そして全て見終わった時には、もれなくロス状態に陥る。これで廃人人間のいっちょ出来上がり!
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それから少しして、ふとしたきっかけで(ハル)という映画を見る。
ある時、恋人をなくして以来どうすればわからなくなってしまったほしは映画好きのチャットに参加して、そこで肩を壊したハルと出会う。彼らはパソコンの文字チャットだけでお互いに心を割って話をするようになる。
時々突っ込んだやり取りもしている。そして顔の見えない相手に対して時には嫉妬をして。不思議な関係性だと思った。まだ、当然ながらスマートフォンも普及していない。私がちょうど小学生の頃に家にあったパソコンは、ピーガーグロロロと音がして、世界と繋がった。
二人が最初に出会う時、新幹線越しにお互い指定したハンカチを振り合って、そして遠巻きながらビデオカメラにお互いの存在を収めるのだ。それがとても古き良き時代の面影だったようにも思える。不便だからこそ、距離が縮まる気がするというのも皮肉な話だ。
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今は昔と同じように顔が見えないかもしれないけれど、身近に相手を感じることができる。テレビ電話で相手の表情を窺うことができる。でも、もしかしたら本当は近いように見えて、実態は遠くて、だからお互いが真に思っていることをひけらかすことが難しい時代になっているのかもしれない。