一抹の淋しさを溶かし込んで
体の周りにまとわりつくベタベタとした空気は、外を少し歩いただけでも不快さを催し、留めて急に体から体力を少しずつ奪っていく。
図書館への道を歩くだけでも、汗が全身にじわじわと滲み出る季節になってしまった。鬱陶しくて嫌だ、と思いながらもひたすら歩く。曇り空でも、湿度が高くて髪がまとまらない。目的地は、私の家を出て徒歩10分くらいの場所にある。そのため、軽い散歩としては最適な距離。実を言うと、家から図書館が近いというのも今の場所に決めた理由のひとつだった。
私が住んでいる街は、恐ろしくのどかである。仕事場が都内ゆえに、人の多さにギャップが感じられ、それもまた良いところだった。道を歩く途中でのんびりと家族づれの人たちが仲良さげに私の横をするりと抜けていく。もしかしたらこんな優しい未来があったのかもと思いながら。
ベンチには、楽しそうにサッカーボールを持った少年たちがアイスを食べている姿が見えた。それから一人のお爺さんの姿。横には昔ながらのカセットプレーヤーが置かれそこから陽気な音楽が流れていた。彼の首からボードのようなものが吊り下げられ、そこに書いてあるのは「世界滅亡」という、おおよそ流れている音楽とは似つかない言葉だった。
滅亡、という言葉。ただならない、ただただこの人生はままならない。もしかしたらそこに座っていることは彼の意思表示なのかもしれない。さりげなくその人の目の前を通ると、何も感情が見えなかった。できることなら、その場で優しくトントン、と背中を叩いてあげたくなる。
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少し前に、会社の仕事がらみで大阪に行く機会があり、そこで出会った人と飲み会で意気投合した。その次の日に天満駅で待ち合わせをして、お酒を飲みに行く。天満駅は昔さながらの風景がところどころに今も残っていて、ワクワクした気持ちにさせられる。そして飲兵衛に大変好かれると思われる、朝からセンベロになれるお店も多数存在する。
その人とは、そのうちの一軒に立ち寄り、小二時間くらい立ち飲みをした。こうなる展開になるとは全く予想せず、これまた不思議な縁だなぁと思いながら彼とつらつら話をする。彼は先日女の子を授かったばかりで、最近は赤ちゃんの泣き声で寝不足となる日々が続いているという。私には子どもがいないので、彼の話に対してとても新鮮な気持ちでうんうんと頷いている。
「もう大変なんですよぉ!」というその人の顔には、確かに多少なりとも徒労感が浮かび上がっていたが、一方でもう目に入れても痛くないんですよ、という幸せ感満載の満ち足りた感情も、その裏には隠れていた。
その姿を見て、ああ、やっぱり新しい命を授かって、家族ができるって、人生の一大事だよなぁと、傍に添えられたキムチや焼き串を尻目に、ぼんやりと思った。辛さでほんの少し、汗が額ににじむ。
「赤ちゃんってね、『背中スイッチ』があるんですよ」
「『背中スイッチ』?」
「そうそう。オギャアオギャアと泣き叫んでいる赤ちゃんを抱っこして、背中をさすると、不思議とね、しばらくすると泣き止むんです。一説には、そうやって背中をさすってあげることによって、愛情を感じる機能が備わってるらしいですよ」
へぇ、そんなスイッチがあるんだ、と私は何かに納得したような気持ちになった。そういえば、小さい頃私もお腹が痛くなった時とか、親にさすってもらってスヤァと眠れたことがあったっけ。たとえば、誰か抱きしめる瞬間、背中に回すことになるが、あれが結構安心するのって、多分同じ理由なのかしらん。
朝にお酒を飲むことへの背徳感、そして同時に生じる高揚感、多幸感に満ちた朝。陽の明るい時間帯に飲むお酒は、夜飲む時よりも得した気分になる。早起きは三文の徳、って言うしね。
それから私たちは、「いやぁこんな時間に飲むお酒って健康的ですよねぇ!」「わかるわかる、夜に飲んだらその分カロリーが跳ね返ってくるらしいからね!」「ビバ☆朝飲み」「イェー!」といういい大人がおおよそやらないことをやりながら、酔い覚ましのために、天満駅から大阪駅までの道を共に歩いた。
その間、私はひたすら、韓国ドラマがいかに素晴らしいかを彼にクドクドと布教していたのである(彼からしたら大変迷惑な話だ)。でも熱心に相槌を打ってくれる人がいるのって、これは幸せなことだよなぁと酔いが回った頭で考えた。ちなみに、最近のおすすめはAmazon Primeで配信している『私の夫と結婚して』と、U-nextで配信している『ソンジェ背負って走れ』です。
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思えば、世の中には毎日のように、悲惨なニュースが流れていて、その度に時々胸を痛める。虐待されている子どもたち、戦争に巻き込まれ自分の家を無くした人たち、実の肉親を自分の手で殺めてしまった人たち。正直、いつもいつも胸を痛めることができない自分に呆れてしまう。
共感性、ってとても大切なことだと思うんだけど、常にその能力を発動しているとくたびれてしまうから。だから、時々──。おまけに私は私で自分のことで手いっぱいで、誰かを憂える時間があるなら自分のことを憂いたいなんて思う夜もある。自分のどうしようもなさに深いため息をついて、ダメだとは思っていてももしかしたらあの時こうしたら良かったのかな、なんて過去を悲観することをしてしまう。
たとえ、誰かと一緒にいたとしても、どこかに孤独は埋まっているから。恋人といても、家族といても、友人といてもなぜか満たされているはずなのに、針先ほどの小さな穴が空いていて、そこからひゅうひゅうと隙間風が入ってくる。けっきょく一人なのかもね、と友人はある時ぽつりと呟いたことがあった。誰かといたとしても、私たちは生まれる時と死ぬ時は一人で死んでいくんだよ。
世界滅亡、というプラカードをぶら下げていたお爺さんのことを思った。みんな、誰かから背中のスイッチを押してもらえる人がいたらいいのにね。そうしたらもう少し、平穏な気持ちでいられるのにな。
誰かと確かに温もりを分かち合った瞬間、感情を分かち合うことができる友人、絶望の淵から救ってもらえた記憶。そうしたものが順繰りに巡り巡って他の人にも、影響を与えられるように意識しながら生きていきたい。銃声ではなく、鶏の鳴き声で目を覚ます朝が、誰にとっても降り注ぐものであればいいのに、と願ってやまない。