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大煙突とさくらのまち読本

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日立のまちの大切な記憶である「大煙突とさくらの物語」を思い出し、日立の未来を考えるためのベースとなる冊子『大煙突とさくらのまち読本』を2023年3月に発行しました。 このマガジン…
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#日立

目次

はじめに 主な登場人物 大煙突とさくらのまち 歴史を知ること/私たちの暮らすまちの歴史/日…

大煙突マップ

編集後記

「日立のまちの大切な記憶である「大煙突とさくらの物語」を思い出し、日立の未来を考えるため…

おすすめコース:実際に歩いてみよう!

共楽館から大煙突ビューポイントへ 共楽館(現・日立武道館)は、常磐自動車道日立中央IC手…

より深く学ぶために

おすすめの本 『ある町の高い煙突』(新田次郎/文春文庫/1978年) 日立鉱山の煙害問題を若…

【コラム】 日立鉱山は都市鉱山へ

日立鉱山は、大煙突倒壊後は景観から見ると、小坂、足尾、別子のような、鉱山のまちというイメ…

【コラム】 日立鉱山の人づくりと教育

久原房之助は小坂時代から一山一家の理想鉱山を目指し、思想善導、人道主義による従業員養成を進め、日立鉱山創業に際しても、この方針をもとに労働者教育を行いました。 当時の鉱山の労働者は、問題を抱えるものが多く、「赤沢がえりはおっかない」という中で、厳格な服務規則と福利厚生策で従業員の生活改善や合理化を進め、人材養成と文化水準の向上を図りました。 地元にも学校支援、育英資金等の助成を行い、信頼関係を築いています。 日立鉱山夜学校を明治42年に創設。意欲のある優秀な人材に、学ぶ機

大煙突とさくらのDNAが現在につながる

大煙突は日立のシンボル 今から100年以上も前、近代鉱工業発展の時代に、「人と自然と産…

【コラム】 日立風流物

昔は宮田風流物と言われ、元禄8年(1695)徳川光圀の命により、神峰神社が宮田、助川、会…

さくらのまち日立へ

市民が植えたまちのさくら 戦前は、主に日本鉱業や日立製作所の手によって企業の社宅や病院…

閉山と大煙突の倒壊

日立鉱山の閉山 工業都市日立の誕生(原点)、その後の発展において大きな原動力となった日…

戦災を乗り越え工業都市へ

工業都市日立と戦災 日立鉱山や日立製作所の発展により、日立市は人口も増え、工業都市とし…

共楽館の建設

鉱山と地域の共生「共に楽しむ館」 大煙突の完成により、煙害補償金が減少したことで、この…

【コラム】 オオシマザクラとソメイヨシノ

日立鉱山でオオシマザクラが最初に植樹されたのは明治41年(1908)で、試験的に住宅地や街路樹として植えられたことに始まります。 地所係の鏑木徳二、山村次一が煙害で荒廃する日立鉱山の山々へ植林する耐煙木として、伊豆大島の火山噴煙地帯で、硫黄分の多い土地に生息するオオシマザクラの苗木や種子を取り寄せ植林したといわれています。 オオシマザクラは、伊豆半島や房総半島に多く分布し、薪炭用に栽培され、餅桜・薪桜といわれ、野生状態になったといわれています。 日立鉱山の石神農事試験場