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大煙突とさくらのまち読本

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日立のまちの大切な記憶である「大煙突とさくらの物語」を思い出し、日立の未来を考えるためのベースとなる冊子『大煙突とさくらのまち読本』を2023年3月に発行しました。 このマガジン…
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#日立鉱山

目次

はじめに 主な登場人物 大煙突とさくらのまち 歴史を知ること/私たちの暮らすまちの歴史/日…

【コラム】 日立鉱山は都市鉱山へ

日立鉱山は、大煙突倒壊後は景観から見ると、小坂、足尾、別子のような、鉱山のまちというイメ…

【コラム】 日立鉱山の人づくりと教育

久原房之助は小坂時代から一山一家の理想鉱山を目指し、思想善導、人道主義による従業員養成を…

【コラム】 久原房之助のその後の活動

大煙突が完成した大正4年(1913)以降、久原房之助は大分県佐賀関製錬所、朝鮮鎮南浦に大規模…

閉山と大煙突の倒壊

日立鉱山の閉山 工業都市日立の誕生(原点)、その後の発展において大きな原動力となった日…

共楽館の建設

鉱山と地域の共生「共に楽しむ館」 大煙突の完成により、煙害補償金が減少したことで、この…

【コラム】 オオシマザクラとソメイヨシノ

日立鉱山でオオシマザクラが最初に植樹されたのは明治41年(1908)で、試験的に住宅地や街路樹として植えられたことに始まります。 地所係の鏑木徳二、山村次一が煙害で荒廃する日立鉱山の山々へ植林する耐煙木として、伊豆大島の火山噴煙地帯で、硫黄分の多い土地に生息するオオシマザクラの苗木や種子を取り寄せ植林したといわれています。 オオシマザクラは、伊豆半島や房総半島に多く分布し、薪炭用に栽培され、餅桜・薪桜といわれ、野生状態になったといわれています。 日立鉱山の石神農事試験場

煙害問題の解決

大煙突の使用開始 大煙突は、大正3年(1914)12月20日に本体部分が完成し、その後煙道等の…

大煙突の建設、もうひとつのプロジェクトX

大煙突建設を決意 神峰煙道とダルマ煙突の失敗を見て、久原は大煙突の建設こそ解決の手段だ…

煙害解決への模索

農事試験場 日立鉱山では亜硫酸ガスが農作物や樹木に及ぼす影響を調べるため、明治42年(190…

【コラム】 誠実な記録者 関右馬允

関右馬允は、日立鉱山の煙害問題に住民側の代表として青年時代から取り組み、小説『ある町の高…

鉱山との協力

富国強兵のためには犠牲やむなしの風潮 明治維新以来、日本は急速な近代化の道を突き進み、…

煙害発生

煙害とは 銅を含む鉱石には20パーセントを超える硫黄分(元素記号S)が含まれています。これ…

【コラム】 信念と挑戦の人 小平浪平

日立製作所の創業者小平浪平は、1874年栃木県で生まれました。近代日本の夜明けと言われる明治の初期です。恩師の助言等から、蒸気から電気へと時代が移ることを予見し、東京帝国大学電気工学科へ進みました。 大学を卒業するとすぐ浪平は秋田の小坂鉱山に就職しました。この時代の鉱山には時代の最先端の技術が導入されており、身につけた専門知識が実地に活かせると考えたためです。ここで久原房之助に出会い、発電所建設に携わりました。 4年後小坂鉱山を辞めて東京電燈(現在の東京電力)の電気技師に