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不幸な顔してる




先日息子を連れ、ある検査に行ってきた。


それは息子にとって今回が初めての検査で、以前から主治医との話し合いにより「小3を目途に」と決めていたから、わたしとしてはついにここまできたかとある程度覚悟はできていたはずなんだけど、複雑な気持ちのまま申し込み〜当日を迎えて、検査中はその気持ちがバレないように、さらに自分で自分を守るためにも、へらへらと息子のそばで笑ってやり過ごし、見届けた。


検査を終えた10分後ぐらいには暫定の検査結果が告げられた。
検査を受ける前は、結果に対して嬉しいとか悲しいとかなにか特定の感情が湧いてくるのかと思ってたけど、その場ではそれをどう受け止めたらよいのか分からず、そこでもわたしはへらへらとしていた。


検査室から出て、息子と歩く玄関への道のりは節電対策なのか照明が薄暗く、味気のない空間で、天気予報通り外は雨が振り始めていた。行きは気にならなかったことがいちいち気になる。
息子の要望で帰りは二人でケンタッキーに寄った。店員さんが優しかった。


思えば、子を授かってからずっとこんな行き場のない気持ちを抱えて子育てをしている気がする。子どもは可愛いのに、時折わたしのなかのなにかがうずく。
わたしはおばあちゃんになってもこの気持ちを抱えたままでいるのかな。


そんな風に思ったらひどくぞっとした。


慌てて、4ヵ月以上伸ばしっぱなしでボサボサだった髪を切って、久しぶりに髪を染め、4-5年前のコロナからずっと外せずにいたマスクを外して、家にある不要なものを処分した。まだ部屋は片付け足りないし、毎日ノーメイクに近いけど、気分爽快。


複雑だった気持ちは息子が原因ではなく、わたし自身からきている。息子を通して見えたわたし。
わたしの苦手なこと、不得意なこと、コンプレックスがちがえば、いままでの心の葛藤もまたちがったものになっていただろう。



「楽しみは自分で作るものよ。」



息子が2-3才ごろ、動物園にばかり通っていた時期があった。家事も育児もいま以上にままならなくて毎日が辛くて、家にも公園にも児童館にもどこにも居場所を感じられず、当時のわたしは動き回る息子を見ながら上野動物園のゴリラ舎でよくゴリラを眺めていた。


ある日、そこにたまたま居合わせた女性が他園で飼育されているゴリラの話をしてくれた。別れ際、その女性はこともなげに「楽しみは自分で作るものよ。」と言ってその場を去った。明日関西のゴリラのお誕生日祝いに行くのだという。



楽しみは自分で作る、その通りだと思う。
眩しくも卑屈な気持ちであのときはその言葉を受け止めていたけれど、わたしはずっとこの言葉を大事にしてきた。



そろそろ不幸な自分でいるのも飽きてきた。
変わろう。




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