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はじめまして!えりんぎです🍄


野菜が好きだった+えりという名前で、えりんぎと名付けた

学生時代から自分の名前が変換で出ない名前(枝里)だったことから、
なにかあだ名つけようって野菜が好きで、えりんぎになった🍵🍄

普段は、プライベートのXでえりんぎってみんなが呼んでくれるから、
アドレスまでeringiになってます。笑

婚活業界で10年活動をしています!
大手結婚相談所7年(タメニー株式会社)
恋活婚活マッチングアプリペアーズ3年(株式会社エウレカ)
結婚相談所まめ婚 ライフデザイン事業部(去年の冬から立ち上げでいます)株式会社日本財託

音楽と恋愛と共に生きたこれまでの人生

幼少期は、3歳から16歳まではずっと毎日音楽で時間を溶かしました。
ピアノの先生が知り合いにいて、「この子音楽やらせた方がいいかも?」と突然言い出し、ピアノをやることになる。ピアノを弾きながらオルゴールを作曲するとかやったり、引っ越しで先生が変わったり。練習ってきついな・・・を経験したのはピアノ。最終的に、チェルニー40番までやって音大に行く行かないのところで、行きませんでした。(ピアノの先生で🍚をご飯を食べていけると思えなかったから)小学3年の頃には、自分で「ヴァイオリンを弾いてみたい!」と言い出してピアノと両立をして、2年やることに。鎌倉まで通って、リスに会えるときが一番の幸せだったかもしれません。笑 練習がきつかったので、自分に合う音楽を必死に探す日々でした。オカリナ・サックス・琴くらいまではやって、どれも違うという感覚。

小学生の頃は、歌とダンスと恋

小学3年生の頃には、周りから「歌がとても上手!声がきれいね。」と言われていて、歌とダンスをやって遊びでやるつもりが、学校の文化祭で歌っていたり、周りに歌手になったらいいよって背中を押されて、そのまま何もやらないのって違うのかも。と14歳の頃に思い、avexのオーディションに姉に連れていかれて1000人の前でアカペラで歌を歌って、特待生にはなれず落ちて、そのあとavexのアカデミーに入りました。

avexアカデミーに入ってよかったこと

沢山あります。まず16歳で学校が終わると一人で原宿まで制服で行って、歌のレッスンをしていた日々。嫌だったことはグループレッスンがあって、常にだれかの歌を横に並んで一人ずつ聞くという時間。先生は比較もするし、横で歌っている子の次に歌うときは緊張して声がうまく出せない日も。
上手に歌う子のとなりにいることも怖かったです。

フロア内の筋トレ室には、当時misonoちゃんがデビューした頃で、レッスン終わりにmisonoちゃんの筋トレ姿を見て帰る日もありました。彼女は注目を浴びていて、まるでキラキラな世界にいる人のようでした。
特待生はエレベーターが使えるけど、落ちたら階段とかあって、芸能界は怖いのかも私にできないというか、たどり着けない場所かも・・・。と思い始める。

恋の歌が歌えずに、初めて本気の恋をしてレッスンをサボる

時々、個人レッスンもあって、実力のあるプロデューサーの人が担当をしてくれたときは、アドバイスも的確でアドバイスをもらうことが嬉しいと感じたのは、この時が初めてだったかも?
「好きだなんて言えない。」っていう曲が課題としてあり、歌詞の意味が当時の16歳の私には理解が追い付かず。感情が出せなくて歌えず悩みながら悶々としていた。そんなとき、初めて大好きになった恋人とのお付き合いが始まりました。(高校2年生)

同じクラスに一度なってそのあと離れて、みんなで遊ぶうちにお互いに好きになったという流れ。本当に大好きな人で、雰囲気は塩顔。身長173センチ。家庭は、とても小さな弟が2人いた。
長男だったその人は、お世話をしていて小さいから私も一緒に遊んだりして。デートは、彼の家で兄弟と会うことも弟がいなかった私にとっては楽しかった。とても静かな男性で穏やかで奥手男子。

ある日、どうしたのかレッスンをサボる。一緒にいたいと思ってしまったようです。(この後、アカデミーをやめる決断をする)

17歳のときに、このまま音楽で続けてもアイドルにはなりたくないし、ダンスを極めて歌も作れるようにならなきゃ、歌詞も文章を書くのが苦手すぎて当時できなくて、向いていない・・・。メンタルも強いと言えない・・・。って趣味で音楽をやっていこうと決めて、学校に通って資格をいくつか取ってディズニーホテルに就職をしました。(ウエディングプランナーになろうと思って目黒雅叙園は内定を断る。)

ディズニーで教わったことが9割

ディズニーホテルは倍率がとても高くて、最終面接もパフォーマンスが求められるような面接で、台本を作ってプレゼンをしたり貴重な体験でした。
新卒は、年末のパーティーでダンスを企画して踊るので、パイレーツオブカリビアンのダンスを完コピして、メンバーに教えるポジションができたのも良い経験でした!

日本料理で早いときは、朝の5時に会社に行って着付けからスタートの日々。根性のいる仕事でした。結納や七五三のお祝いのお席だったり、VIPの席を担当できたりと、アレルギー対応が本当に大変であの時の料理台帳は今でも忘れないくらい、細かな情報とミスは許されないという緊張感のある日々で、メンタルは鍛えられた。私の上司は、今ディズニーホテルの取締役の方で、去年13年ぶりに会いにいったら、食事をごちそうしてくれてずっともらった手紙をあたためて見せて感動してもらったり。仕事の姿勢と人柄が組織をよくするということを学んだ方です。

今でもディズニー時代の板前さん、上司や先輩同僚は、SNSを見て応援してくれている関係で、大切な人たち。

ディズニーホテルでは、シーズンカクテルの審査を受けて合格を受けることが一番の思い出。商品開発をできたし、プレゼンもできてウォルトの世界に入れた気がして、毎日自分の作ったドリンクがどんどん売れていくのがとても嬉しかった。ディズニーは、研修も厳しくディズニーパークに2週間働くことも、東京ディズニーリゾートの人気レストランの予約電話オペレータの仕事もやります。都度、同じディズニーなのに内容や環境が全く異なるものは、頭を使うから勉強になりました✨(研修はミラコスタホテルでした)

ITが苦手だったから得意になりたい、営業を学んで話せるようになりたいとも思って、転職。この頃から「人前で歌以外で話せるようになりたい。」と強い思いが眠っていたと思います。Softbankで3年お仕事をさせていただいた後、26歳で結婚をすることになる。ここから私の人生が大きく変化することになるとは、私も家族も想像していなかった。Softbankでは、月間で法人の方含めて、よくあるスマートフォンなどの付属品のみで74万売上を作り1位獲得や、四半期で2位など取れたことは、ひとつの喋れるようになって、相手を振り向かせるとか、そのあたりを学んだ気がします。


結婚相談所に入社を決めたのは、離婚をすると思っていたから

26歳のときに職場で出会った10歳年上の男性と3年の交友関係があり、1年のお付き合いで同棲をせずに半同棲で結婚しました。
もともと、自分に自信がなかったタイプで、何をやるにも周りから背中を押してもらって、始めてみることしかできなかったから、恋愛も同じでした。

恋愛を難しく考えてもなくて、いいなと思ったら自然と付き合っていた

振られた経験は、1回高校生の頃と中学の頃に一回あって、それ以外は全部自分から振ってきた恋愛でした。それでも振られた原因が「えりんぎは、夢を追いかけているから僕とは世界は違う。」と言われたり、振られる意味とか理由がわからず、自分が大好きになるというより私にほどほどに興味をもつ人の方が合うんだろうと思って、束縛もしない人にしました。

結婚後すぐに関係性が崩れる。6年の結婚生活は言えないことばかり

離婚理由は何?って聞かれてしまうけど、離婚してからも元パートナーとはずっと連絡と会っていて、6年共同養育を取ってなんとかもう一度という気持ちで手を取り合ってきたので、記録には残せず。(直接聞いてくれたらいつも答えるけど、驚く人が多いのでいつも言うの緊張しています)

20代の結婚の判断は、数も客観性も薄い

今だから客観的に見えるけれど、20代で恋愛を経験していても数は少なかったかな?と思います。合コンもいかないタイプで大人数とかよりは少人数が好きで、紹介とかも何度か経験したけど、私が気持ちに応えられなくてつらくて、いつからか断ることしかしなくなっていた経験があります。

数は、付き合う数ではなくて、出会う数と年代が大切かなと思います。
結婚相談所の出会いのシステムがまさに理想でした。

恋愛ってたとえ付き合えてもその相手とある程度濃いコミュニケーションを取っていなければ、数のカウントとしても難しいことがある。
20代なら同世代30代までは会ってみて、年代のギャップの感じる人と感じない人を知ったりは大事。

私の場合は、昔から年上が好きではなくて、同世代が好きだったけど同世代は束縛がひどい恋愛をしたことにより、年上になっただけ。年下とも付き合ったことあるけど、年の差をどうクリアしていったらいいのかわからず、私が振ってしまっただけ。そろそろ気づきましたか?そう。「自分が振ってしまう恋愛をしてしまうときって、自分が壁を壊せていないだけ。」なんです。

離婚をしたことをさらっと書いていますが、これまではNHKの取材・講演会・動画出演などシングルマザーとしても活動をしてきました。(ここ数年は、子供のことがありお断りしています)

シングルマザーとしての生き方

シングルマザーになったのは、30歳のときから準備を始めて31歳~32歳までの1年間裁判所に通い、成立しました。

これまでの人生の中で、一番きつかったけど学びとなって自分のキャリアが劇的に変わったのは、この裁判所での過酷な経験です。

裁判所で大変だったこと


・相手を責めずに常に寄り添いながら、何十年も先のことまでの交渉を行うこと。(毎月または2カ月に一度、裁判所へ)
・起きた事実を箇条書きに起こして、冷静に自分と相手を見つめることが必要
・世の中全体として、自分と同じ案件が何%いるのか調べる。(調査)
・子供の幸せのために、何ができるかを必死に考える。
・相手が受け入れるまでは、永遠に継続して裁判の担当を通じて、伝え続けるため、忍耐力が大切。

当時、私の担当弁護士は2名体制で、ラッキーなことに有名弁護士だったためとても強く、常に安心できました。
初めてこの弁護士と出会ったときは、部屋で泣いて慰めてもらい、大丈夫。でもこれから一人で育てていくんだから、もっと強くなりなさい。って言われたことは、今でも忘れないです。

シングルマザーと思わなくなったのは、元パートナーがいたから

離婚をしたいとお願いしたのは、私でした。
周りの意見も聞いて、「別れてもいいと思う」と言ってくれた友人たちのおかげで決断できたのかもしれないですが、別れてもずっと繋がるというのが私がお願いをした条件でした。娘に悲しい思いをさせてしまうから、せめて離れるのなら、続けようと思ったから。

離婚をしてから毎月6年間、元パートナーと娘を会わせて自分で送迎もやるのは精神が落ち着くまではきつかったです。本来離婚をした場合は会わせない人も多く、会わせるときも代理人が付き添いをして面会交流をするのが一般的です。

絶対にそれは娘のためにしたくなかった。という思いが強く、食事にも3人で行って、お泊りをしたこともありました。お泊りはさすがに私がつらくて、一度でリタイア。それでも娘のためならまたできるかもって思います。

離婚をしてからの方が、絆が深まりました。運動会や授業参観、保育園のお迎えから卒業式、お弁当作り、一緒には住まないけどなるべくやってもらったから、本当に感謝しています。

結婚相談所は、私の人生を変えてくれた場所

28歳の頃に結婚相談所という場所に出会う。
お見合いで結婚かぁ~。職場の恋愛しかしたことがなかった私にとっては、とても難しい世界だった。

コーチングを学ばせてもらい、1歳の娘を抱きかかえながらの仕事復帰も毎日が大変で、お客様には自分のことは話さなかった。とにかく出会いの作り方、色々なタイプの人の人柄を見抜く力、マッチングの分析力、交際のサポートから成婚までの背中押しなど、ここでは書ききれないくらい、恋愛と結婚のことを4年間ですべて吸収できました。その時、私は離婚して次に進まなきゃと決断をして、そのあと婚活事業の本部に異動をする試験に挑戦して、一度役員に落とされて、でもすぐにやっぱり合格にするってなったのは、幸せでした。笑

婚活業界のことは、長くなるのでまた別で書きます♡

これからの娘と私の人生について

半年前くらいに娘とふたりで真剣な話をしたときのこと。「そろそろ、ママも好きな人を作りたいと思っているの。」って伝えて、「わかった。」と言ってもらえたから、去年の冬から婚活や出会いを楽しむことに。

色々な方との出会いを楽しみながら、自分が誰に選んでもらうのか、どんな人を選んでいくのか、結ばれていくのか。とてもわくわくな気持ちです。

このわくわくが感じられたのは、婚活の世界で私自身が200組以上の成婚を作って、結果を出したから。恋愛は、何度してもいい。ただし、恋愛と結婚は別のもの。繋がってはいても、続けるためには別の視点が必要であること。自分を知り尽くしたから、胸を張ってこれからを歩いていけます。
このことを、恋愛をめんどくさいと思っている人や、結婚できないと思っている方に伝え続けていくのも私の仕事です。

今後は、シングルマザーの方々の支援もできたらと考えていますし、シングルマザーの方に共同養育のコツも伝授したり幅広く婚活や結婚関連に携わることを目標にしています✨


自分の人生は、変えられる。







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