クリスの物語Ⅱ #90 試練
気づいたら、ぼくは薄暗い水の中にいた。
ピューラのおかげで息はできたけど、少し重苦しい雰囲気だった。
それに、そこら中から視線を感じる。
その場で回転して、360度見回した。
でも、濁った水の中で、周りには何も見当たらなかった。クレアさえもその場にはいなかった。
『クレアー!』
頭の中で何度も呼びかけた。でも、自分の声が頭の中でやまびこのように反響するだけだった。
なんだか少し息苦しくなってきた。耳鳴りもし始めて、頭や胸に圧迫される感覚がある。手足がしびれ、力がどんどん抜けていく。
もしかして、ピューラの効果が切れてしまったのだろうか。それで、ぼくはこのまま海底で押しつぶされてしまうんじゃないだろうか。
そんな思いが頭をよぎった。
すると、どこからかぼくを呼ぶ声が聞こえてきた。
『クリス』
声がする方を向くと、そこにはベベがいた。それも、今のベベじゃなくて、生まれ変わる前の初代のベベだ。
『あれ?ベベ?なんでベベがこんなところにいるの?』
『会いたかったよ、クリス』
ベベがしっぽを振って、その場で飛び回った。
『ベベがいるってことは、もしかしてここは死後の世界?あれ、でもべべは生まれ変わったはずじゃない?』
ベベのもとへ駆け寄っていこうとすると、今度はまた別のところからぼくを呼ぶ声がした。
振り向くと、そこにはお母さんがいた。
『え?なんでおかあさんがいるの?』
おかあさんがいるってことは、ここが死後の世界というわけではないみたいだ。
『何やってるの、クリス!変な夢ばっかり見ていないで、早く帰ってきなさい』
怒った口調でおかあさんがいった。
どういうことなのだろうか?今まであったことは、全部また夢だというのだろうか?
すると、今度は別のところからぼくを呼ぶ声がした。振り向くと、沙奈ちゃんがいた。
『クリス。もういいよ。もう帰ろう。さっきソレーテさんがいっていたけど、地球が滅びるなんてことは本当はないんだって。だから、何も責任を感じるようなことはないって。だから帰ろう?』
沙奈ちゃんがそういって、手を差し出した。
『そうだよ。早く帰って来いよ。もう、中学が始まるぜ』
いつの間にか沙奈ちゃんの隣には、学生服を着た隆がいた。
『そうだよ。帰って来いよ。中学入ったら同じ部活に入ろうぜ』
浩と康平もいる。他にも学校のクラスメイトが、ぞろぞろと目の前に現れた。佐藤先生までもがいた。
『クリスくん。君はもう中学生ですよ?いつまでもそんな妄想をして遊んでいる場合じゃありません。あなたが世界を救うなんて、そんなわけがないでしょう。いい加減、目を覚ましなさい』
先生の言葉に、クラスのみんながうなずいた。
そうか。やっぱりぼくは長い夢を見ていたのか。たしかにそうだ。ぼくなんかに世界や人類を救う使命があるだなんて、おこがましいにも程がある。
顔を上げると、ベベもおかあさんも沙奈ちゃんも、みんなが笑顔でぼくを迎えていた。ぼくはみんながいる方へ向かった。
『ダメー!』
叫び声が頭に響いた。
振り返ると、クレアがいた。
『クリス!惑わされちゃダメだよ!そっちへ行ってはダメ!あなたは幻影を見せられているのよ!わかるでしょう?誘惑に流されてはダメ!疑念を持ってはダメ!お願いだから戻ってきて!』
そう叫ぶクレアの顔や体には、傷があった。
何があったんだろう?
『またあいつかよ!惑わされちゃダメーだってよ』
直人が指を差して笑った。すると、クラスのみんなが笑った。
『あいつこそ、おかしいだろ。背中に羽も生えてるし。妖精っていうか、妖怪だろ』
隆がそういって歩み寄ってくると、ぼくの肩に腕を回した。
『あんなのほっといて、さっさと行こうぜ』
ぼくはまたクレアの方を振り返った。
『ダメだよクリス!』
クレアは叫びながら、傷だらけの手で涙を拭っていた。
『やっぱり、ぼくちょっと行ってくる』
隆の腕を振りほどいて、ぼくは引き返した。
たとえこれが夢だったとしても、この世界での責任を果たさないといけない。
放っておくことなんてぼくにはできない。
夢だったら、すべてが終わってから目覚めればいいんだ。
うしろでみんなが叫び声をあげている。ぼくはそれを無視してクレアのところへ走った。
すると、ギュウウウウンッと、引っ張られる感覚があった。
気づくと、ぼくはアクアから抜け出て元の世界に戻っていた。
クレアがぼくのところへ飛んできた。さっきの幻影に出てきたように、クレアは傷だらけだった。
『どうしたの?大丈夫?』と声をかけるや否や、アラルコンが襲いかかってきた。すんでのところで、クレアがぼくを抱きかかえてアラルコンの攻撃をかわした。
ぼくとクレアは地面に転がった。
『クリスよくやったね』
クレアがぼくに微笑みかけた。
『精神面ではもう乗り越えているから。あとは、あのドラゴンの幻影を打ち砕くだけだよ』
方向転換してこっちへ向かってくるアラルコンを顎で示して、クレアがいった。
『右腕を突き上げて』
尻餅をついたまま、ぼくはいわれた通り右腕をアラルコンに向けて突き上げた。
クレアがそこに左腕を添えて、腕にはめたミラコルンのドラゴンの頭部同士をくっつけた。
「オンドーヴァルナーシム!」
クレアがカンターメルを唱えた次の瞬間、ミラコルンから強い光が放たれた。
その光はぼくとクレアを包み込むと、みるみる内に大きくなって、部屋いっぱいに広がった。
それから、光の波動がまるで昇り龍のように、襲いかかってくるアラルコンを飲み込んだ。光に飲み込まれたアラルコンは、一瞬にして塵と化した。
光の昇り龍はそのまま天井もすべて突き破り、天高くどこまでも昇っていった。それを見ながら、ぼくの意識は遠のいていった。
『クリスのパワーって、すさまじいね・・・』
遠のいていく意識の中、クレアの声がかすかに聞こえた。