雑貨の重低音
このところずっと読んでは頭のなかで反芻している『雑貨の終わり』(新潮社/三品輝起)
前著にあたる『すべての雑貨』も、
ものをつくる私、ものを買う私の
どちらにも重低音のように響いていて
今回ももれなくと言ったところ。
「雑貨化というものが、歴史、用途、文脈といったあらゆるしがらみからすべての物を解きはなち、いったんばらばらにして、ふたたび自由自在にくみあわせることで、ひとびとが物をとりひきするスピードをかつてないほど高める技術」
という三品さんの仮定は、
その雑貨化が尺度を変えて都心の再開発にも広がってるのではと想像を膨らませていく。
都心はともかく、
たしかに身の回りに雑貨化(雑貨感覚を持って捉えた物)を逃れられたものがいくつあるだろう。
文脈を理解しながらも、そこから切り離したり、別のものに繋げたり
そんなことを生活の中でやっている自分がいることにも少しの不安を覚えながら、逃れる方法も今の僕にはよく分からない。
今はその自分の中に響く重低音をちゃんと見過ごさないでおきたい。
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