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第五十一話 まもなく結願

こんばんワイパー
32歳男性です。

お遍路も、まもなく終わる


八十八箇所をまわり終えることを結願、
その後高野山に行って満願というらしい。

まもなく終わる=結願も近いということだ。

残すところあと3箇所。

特に強い決意もなく始めたお遍路であった。
思えば3回ほどもうやめて帰ろっかなというタイミングがあった。

1回目は1日目、高松でのこと。
2回目は四十箇所回ったあと四万十市でのこと。
3回目は現金が枯渇しつつあった徳島でのこと。

しかし、いずれもグッと堪えて回った。
帰るのは簡単だ。しかしやりかけたことを途中で投げ出してはいつもの自分と同じではないかと。

今思えば、続けてよかった。
88箇所の霊場がなぜ遠い昔から多くの人に支持され
多くの人が巡拝を続けているのかわかった気がする。

IQ200で科学的面から考える。


①お寺の鐘
ゴーンとついた後の余韻のブォーンという小さい低周波の音に人間が本能的に感じれるヒーリング効果があるだろう。
youtubeなどでリラックスやヒーリングBGMで検索すると出てくるあのブォ〜んという音だ。

心を落ち着ける効果があることは間違いない。

②お香の香り
お香には白檀などのこれまたヒーリング効果のある香りが使われていることが多い。

③自分と向き合いたいという思い
そもそも思い悩んだり、自分を変えたいという思いがなければパワーを感じにいこう!とか修行しよう!とか思わないだろう。
心を落ち着けて手を合わせ、自分と向き合うことはいわゆるマインドフルネスの状態となるのでメンタル面に非常に良い影響がある。


ただ…実際に回ってみて思うのは
理屈ではないということだ。

上記の実践をひたすら繰り返すことによって精神面に良い影響があるのは間違いないのだが、それとは違う、第3の力があるように思うのだ。


スピリチュアルに目覚める


前も述べたように神仏は人の思いだというスタンスは変わらない。
人類史、ひいては地球史から考えると宗教の発生は生まれたての赤ちゃんのようなものだからである。

多くの人間の思いが、心が、溜まりに溜まって力をもつ。

また日本の宗教は明治政府による分離があるまでは神仏習合が当たり前だった。
(仏様もそもそも神様だよねという話)

お寺の境内には鳥居がまだ当たり前にあるようなところもあるし、
そもそもお寺の入り口に鳥居があったりするようなところも未だにある。

神仏は一緒だと考えているから、金剛杖に伊勢神宮の開運守りをつけていたりした。

めちゃくちゃ信心深い訳ではないのだ。

いくつか不思議体験をしたので記録がてら記しておく。

①お参り中に袖を引っ張られる
その方向を見たが誰もいなかった。

②杖おきに置いていた杖から鈴の音が聞こえる
人の気配も感じたが誰もいなかった

③朝方5時過ぎにラインの着信音がする
しかし着信はなかった

④視界の端で僧侶とすれ違う
振り返っても誰もいなかった

お遍路は同行二人といって常に弘法大師に見守られているという。

上記体験は怖いというより不思議だなあという感覚にとらわれた。

逆打ちと言ってお遍路を逆から回るとお大師様とどこかですれ違うからご利益が3倍だということを思えば、
同行二人とは…とも思うのだが、

紛れもなくついてくれていたとも思うし
すれ違ったのかな、とも思う。

実際のところは気のせいなのかもしれない。

ただありがたいことだと感じるこの気持ちはなんなのだろうと思う。


人の温もりを感じる


四国全体でお遍路さん(お遍路をしている人)を大切にしようという風潮があるのか
横断歩道で待っていれば自然と車は止まるし、
接待だと言ってお金をくれたりする人もいるし、
ホテルでもプラスアルファのサービスをしてくれる人もいる。

そもそもただのビジネスホテルなのに玄関下で待ち構えて荷物を持ってくれたりなんというか心遣いの違いを感じる。

四国の文化だといえばそれまでなのかもしれないが、
些細なことでも人の温かさを感じる旅だった。


あと3寺ではあるが、残すところも安全に気をつけて行きたい。

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