いっぱしの呑兵衛に赤ワインは作れるか
「酒を、作りたい」
世の呑兵衛なら、誰しもが一度は見る夢。
時には仲間と楽しく盛り上がるお供として、時には仕事のストレスを一人慰める夜のお供として、また時には気になるあの子とお近づきになるお供として。いつでも酒は我々呑兵衛のそばに寄り添い、素敵な時間を生み出してくれる。
そして我々は日々酒に愛情を注ぎ愛でるように飲むうち、また愛ですぎてお財布が寂しくなっていくうちに、一つの発想にたどり着くのである。
「これ、自分で作ったら安上がりでない?」
以下で述べるのは、この陳腐で浅はかな発想に憑りつかれた、とある呑兵衛の戦いの記録である。
白羽の矢を立てたのは
あろうことか自分で酒を量産すれば安上がりなどという軽率な考えのもと、私は自宅で醸造できそうな酒を調べ回った。訳の分からない材料や装置が必要な酒が立ち並ぶ中、一つだけずば抜けて簡単な代物があった。それはワインだ。
ワイン。それは葡萄酒の神バッカスがもたらした、太古の時代より飲み継がれし命の水。イエス・キリストが我が血と例えた聖なる飲料。ペスト危機後はその生産のしやすさから、人口減による労働力不足を補うため主要産業に躍り出た、人類の救済者。その深紅に煌めく佇まいに多くの者が魅了され、のめり込み、ついには身を滅ぼした。 by デグペディア
そう、私も奴には何度この身を滅ぼされたことか。その口当たりの良さにガバガバと飲むうちあっさりとボトルを空け、気づけばトイレで吐血したかの如く赤い吐瀉物を前に倒れていた経験は、誰にでもあるに違いない。……え、ない?
とにかくこのワイン、恐ろしいほどに簡単に造れるということを知ったのだ。もうほんとに仰天の簡単さ。この文章を酒に酔いながら読んでいる呑兵衛の皆さんでも必ずすぐ覚えられる。私が保障する。いくぞ!
材料……葡萄
<作り方>
1.葡萄を潰して放置。
2.完成。
圧倒的。
圧倒的すぎる。他の酒が麦汁だの麹だの樽だのどこで手に入れたらいいのかすらわからない代物を要求する中、この圧倒的シンプルさ。例えるならTVチャンピオンの料理王決定戦にゆで卵で勝負するような、孤高の潔さ。
「いける、いけるぞ……!」
頭の中一面に葡萄の楽園が広がる。バッカスは我を愛したに違いない。
しかしそんな私のささやかな希望は、一瞬のうちに叩き壊されることになる。
酒税法の罠
意気揚々とワインの作り方を調べ始めたのもつかの間、私は早々に大きな壁にぶち当たった。それは酒税法の存在だ。
酒類の製造免許を受けないで酒類を製造した者は10年以下の懲役又は100万円以下の罰金。 ※酒とはアルコール分が1%以上の飲料を指す。
これ捕まりますやん。
こんなことでお縄になるなんて、さすがに世間様に顔向けできない。「ねえねえ奥さん、出口さんとこの大地さん、自宅でワイン作ってるのバレてブタ箱にぶち込まれたらしいわよ」などとご近所に噂されようものなら、まさしく生き恥である。かといって1%未満の酒を作って良い気になるのは呑兵衛としてのプライドが許さなかった。
そう、私は始める前から負けていた。例えるなら甲子園で試合開始のサイレンが鳴り始める前に先頭打者ホームランを打ち込まれたような状態である。
バッカスよ、我を見放したか……。しばし落胆していた私だが、ふと重大な事実に気が付く。
これ日本の法律やん。
そう、私は今ドイツに住んでいる。日本の酒税法は国外には適用されないので、ドイツに同じような法律がない限り自由に酒を作れるのだ。
私はネットの大海原を駆け巡るサーファーとなりありとあらゆる情報を調べ、そして見つけた。自家醸造を完全に禁止しているのは世界で日本だけだった。なんでも酒税の確保のために、税金のかかからない自家製の酒を禁止したらしい。もっと健康のためだとか危険性の話とかと思いきや、なかなか現金な理由である。
つまりドイツに住んでいる私はどんなマッドな酒を醸造しようがブタ箱にぶちこまれることはないのである。そう、私は選ばれし民だったのだ、フハハハハ。お、ちょっとそこ頭が高いぞ?
究極完全に調子に乗った私は、早速材料の調達に向かった。
あ、バッカス、サンキューな。
4月11日 仕込み
私は意気揚々と葡萄を買いに出かけた。安物で十分だが、皮色の濃いものが良いとのことで、近所のトルコスーパーで1ユーロ/ 500gで叩き売られているどこの馬の骨ともわからないとびきり濃厚に色づいた葡萄を3パック購入した。
あとはこいつを洗わずに潰して放置しておけば、皮に付着した酵母の働きによって発酵が始まる。「洗わずに」放置するというところがミソのようだ。
私は葡萄を取り出し、早速マッシャーで潰しにかかった。途中カビが綿のようにもっさり生えていたものもあった気がしたが、ひどいものだけ取り除いてどんどん潰していった。私は都合の悪いことは目に入らない質なのだ。
しかしこの粉砕作業はなかなか骨が折れる。もっと皮が軽やかに破れ、中の果肉がはじけ飛んでいくような爽やかな工程を想像していたが、現実は固く抵抗する果実を、マッシャーから伝わる鈍い感触を得ながら無理やり押しつぶす、実に根気のいる作業だった(実を潰すだけに)。
圧搾した果汁をひと舐めしてみる。爽やかで甘酸っぱい葡萄の香りが口内に広がる……かと思いきや、どちらかといえば雑草をすり潰したような青々しい甘み。これ本当に美味しく出来上がるの、バッカス?
今回作るのは醸造の比較的簡単な赤ワイン。あの渋みの元となるタンニンを多く含ませるには、皮や種ごと放置するのが良いらしい。
ガラスの容器の上にラップをかけ、炭酸ガスを逃がす穴をいくつか空けて、そのまま15℃~25℃の日の当たらない場所で静かに置いておく。あとはカビ防止のため一日に何度かかき混ぜてあげるだけ。世話のかからん奴め。
薄赤色に染まったそれは電子レンジの上で静かに佇んでいる。もう一度青々しい香りを嗅ぐと、新たな家族を迎え入れたような、温かな胸の高鳴りを感じた。
※繰り返すが、私が選ばれし民なだけであって、日本で1%以上のアルコールを醸造するのは違法である。日本在住の諸君はマネしちゃダメだ。間違っても私が犯罪を助長しているだのとタレこまないように。フリではない。ほんまフリちゃうぞ!
4月12日
早ければ次の日にも発酵が始まるらしい。翌朝、私は期待に胸を膨らませながら台所に向かった。
寝ぼけた目をこすりながらレンジの前に腰を落とす。どれどれ……お、これは!
容器のふちにうっすらとカビが生えていた。
バッカス?
例えるなら誕生日プレゼントを開けたら泥団子だったときのような落胆をこらえながら、私は除菌シートでカビの生えた部分をせっせと拭った。
4月13日
彼はいまだ静かに佇んでいる。まあこんなもんだろう。
4月14日
いよいよおかしい。さすがに発酵開始が遅すぎる。いつまで寝てんの?お前はおれか?焦りのあまり葡萄に暴言を吐く私。
それもそのはず、このまま発酵が始まらなければ、こいつはただの1.5キロの腐った葡萄ジュースでしかないのだ。ちなみに発酵と腐敗の違いは、人間にとって有益かどうか、だけらしい。うん、どうでもいいね。
私には一つの仮説があった。ここ数日冷え込んでいたこともあって、台所は発酵させるには気温が低すぎるのかもしれないと思い、容器を比較的気温の高いリビングに移動させてみた。
勘は当たった。午後には早速プクプクと音を立てて発酵し始めた。
バッカスぅ!!!
発酵し始めた葡萄は人が変わったように、否、葡萄が変わったように軽やかな香りを振り撒いていた。時々ポコッっと発砲音が耳をくすぐる。その健気な姿に堪らなく愛おしさを感じた。
そこには確実に生命の営みが存在しているのだ。葡萄という宇宙の中で酵母たちが織り成す世界をゆっくり眺めているうちに、いつしか日が暮れていった。
4月16日
発酵がだいぶ進み、葡萄は三層に分離していた。上部には炭酸ガスで押し上げられた皮が浮き、下部には澱(おり)が溜まっている。カビが生えないようにかき混ぜてやると、炭酸がシュワァッと弾けて爽やかな香りが広がる。
甘い葡萄の香りは、気づけばあのワインの香りになっていた。ああ、今夜は赤飯でも炊いてやりたい。
ちなみに平たく言うと、酵母が糖分を食べて二酸化炭素とアルコールを排出することでお酒が出来るのだが、通常葡萄の糖度だけでは一般的なワインのアルコール度数には達しないらしい。なので多くの場合は加糖して糖度を上げているようだ。
呑兵衛にとって、度数の低い軟弱ワインなんぞワインにあらず!思う存分ハチミツを足してやった。「ほれ、食え!食え!」と酵母に語りかけながら一人ハチミツを絞り出す姿は、はたからみると控えめに言って狂人のそれである。
4月21日
発砲が収まった。もう少し様子を見たら、あとは皮を絞り別容器に移すだけ。
完成に近づくことは喜ばしいはずなのに何でだろう、少し寂しい。例えるなら大学生の娘が一人暮らしをするため実家を出ていくのを見守る父親のような、複雑な思い。ああ、葡萄子……。
赤飯のくだりといい今回といい、呑兵衛はいつのまにか葡萄を自分の娘と思い込むヤバい男へと変容を遂げていた。
4月24日
発酵期間の目安は1~2週間。皮をつけこんで発酵させる作業が長ければ長いほど、タンニンがにじみ出て重たいワインになるらしい。「ワインどれにする?」と聞かれたら「イタリアの赤っしょ!」と即答する熱心なイタリアワイン信奉者の私は、あの重厚感を追い求め、2週間漬け置いた。
いよいよ圧搾作業だ。ワインとなった液を別のボウルに移し、皮もいらなくなった布で絞る。作業をしていると腕が赤黒く染まっていく。例えるなら包丁で人を刺したあと「血が、取れねえよぉ……」と懸命に手を洗う殺人犯の気分である。……さっきから意味わからん例えしすぎでない?
絞りとったワインを一舐めしてみる。まず真っ先にアルコールのえぐみ、皮の生臭さ、その後に舌に残る酸味と渋み……。想像より美味しくないぞ、おれのイタリアワイン。イタリアに行くと喋れもしないのに「ヴィーノロッソ、ペルファヴォーレ」とイタリア語でワインを注文してしまう私を満足させるには程遠い出来だった。
どうやらこのあと寝かすことによってマクロマティック発酵と呼ばれる二次発酵が起こるらしい。そんな体操の技みたいな名前して、どうにかなるのかね、バッカス。ワインをペットボトルに移し、しばらく様子を見ることにした。
5月1日
ペットボトルの底に澱が落ち着いている。この澱はざらざらしてあまり美味しくないので、上澄み部分だけを再び別の容器に移す。
さあ、時は来た。
出来立てのワインをグラスに注ぐと、水面が天使の輪のようにキラキラと輝き、確かに「あの」香りが立ち昇った。
期待と不安を半々に、赤く煌めくそれをそっと口に運んでみる。
……私は思わずため息をついた。例えようがない美味しさだった。
圧搾のときはあんなに粗野な味わいだったワインが、おどろくほどまろやかな口当たりに変化し、優しい芳香を放っていた。マクロマティック発酵、恐るべし。
ワインを一口含んでまぶたを閉じてみると、脳裏に美しい風景が浮かんでくる。広々とした葡萄畑が一面に広がり、爽やかな風が駆け抜けて芳醇な房がゆらゆらとなびく。辺りには小鳥たちが飛び交い、木陰では顔を赤らめたバッカスが全身ハチミツにまみれながら安らいでいる。……ハチミツ?
そう、ワインの余韻は完全にハチミツに支配されていた。
呑兵衛にとって、度数の低い軟弱ワインなんぞワインにあらず!思う存分ハチミツを足してやった。「ほれ、食え!食え!」と酵母に語りかけながら一人ハチミツを絞り出す姿は、はたからみると控えめに言って狂人のそれである。
なにしとんねん4月16日の自分。
欲に溺れた呑兵衛のマヌケ顔が、グラスの水面に揺れながら映っていた。
そして夢の中へ
完成したものはハチミツの余韻が強すぎて「ハチミツ赤ワイン」と呼べる味わいになったものの、間違いなく成功と呼べる美味しさに仕上がった。赤玉スイートワイン超えてきたんちゃうかなこれ。
ワインってこんな簡単に作れるんです!皆さんも是非作ってみてください!逮捕されるけど!
ー蛇足ー
このワインを見つめ、口にする度、なんだか不思議な感動が込み上がる。
潰れた葡萄の周りには酵母を始めとした微生物たちの世界が存在して、人間には見えない所で、壮大な生命の営みが行われていたのだ。そしてその営みの恩恵を今、私は口にしている。この世界は全てこんな「見えない営み」の集まりで成り立っているらしいことを、ワインは私に語りかけた。
カムチャッカの若者がキリンの夢を見ているとき、メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っていて、サバンナでライオンがシマウマを喰らう間、潰れた葡萄の周りでは酵母が働いている。こうして見えない所で行われる各々のミクロな活動が、パズルのピースとして組み合わさり、その恩恵でこのマクロな世界は回っている。だからこそ、すべてが尊い。もちろんあなたも、私自身も、まさしくその小さなピースの一片に違いない。
一方この「世界の成り立ち」が横軸の広がりとすれば、ワインは「時間」という縦軸の広がりをも私に示唆した。
人類のワインの歴史は、7000年前のコーカサス地方までさかのぼる。旧石器時代、人類が金属すら手に入れていない時代。もちろん微生物の営みなど露とも知らぬ我々のご先祖様が、「葡萄を潰して置いておくと、なんでか美味いし保存がきくらしい」ことを経験で学び、伝え、現代の呑兵衛が同じように作り飲んでいる。7000年前、ご先祖様は何を思いながら葡萄を潰し、何を語らいながら飲んでいたんだろう。太古のロマンと、現代までに至る時代の大河が詰まったこの一杯をあらわすのに、ロマンティックという言葉はなんと陳腐だろうか。
ミクロとマクロ、過去と現在、世界の成り立ちと人類の歴史、生命の尊さと時空を超えた思い。このワインが重層的に織り成す縦横の糸を味わうにつけ、バッカスが人類にもたらしたとされるこの赤い飲み物の光沢が、ますます神々しさを増したように見えた。
「神様が伝えたものなだけはあるんだなあ」
グラスに注がれたワインを眺めながら物思いに耽ているうちに夜も更け、翌日にとびきりの頭痛だけが残った。