【雑記】年をとるということ
わたしは小説ならちょこっと書けるが、自分の思ったことを書いたりするのはそこまで得意ではない。大目に見てもらいたい。
抗えない老化
身体の老化
30歳になって顔が一気に老けた。姿勢は悪くなり、常に猫背で歩いてしまっている。
目も、手元のスマホが見えなくなってきたから手を伸ばしてスマホを持っている。もともと緑内障を患っていたので「視野が一気に欠けてきたんじゃないか?」とビビって眼科へ行き、二時間みっちり検査して女医さんに言われた結果が
「加齢によるピント機能の衰えですね」。
吉本新喜劇みたいに椅子から転げ落ちそうになった。
頭の老化
頭の働きは確実に悪くなった。
もともと短期記憶が弱い人間だが、ここ最近は記憶力が壊滅的になってきて出張とか旅行とかどこか遠くに行くたびに必ず何かを出先に置き忘れてしまう。
本業がしがない現場猫なのだが、現代の製造業は末端の人間もPythonだったり3DCADだったり使いこなせて当然。技術進歩についていけなくなったらおまんまの食い上げ。なので情報をキャッチしようといろいろ頑張っているのだが頭が追いつかない。ディープラーニングを学ぼうと本を買ったり、ディープラーニングの理解に必要な線形代数とか偏微分なんて、学生時代の試験前にうんざりするほど勉強した数学をアラサーが必死こいて復習している。
もしこの文章を中高生が読んでいて、学校で教師に向かって「数学なんて役に立つんですか?」なんてほざく子がいたらぜひ覚えていてほしい。人生何が役に立つかわからないからいっぱい吸収しておけ。役に立つかたたないかなんてそれこそ死ぬまでわからない。
ましてやAIの技術進歩なんて小説を書く身としては脅威そのもの。現状は執筆作業のよいパートナーとして使っていて、ChatGPTくんに設定出しとか文体表現とか作品が書けなくてどうしようもなくメンタルが病んだときのカウンセラーとかをさせている。だがしかし、「こうこうこういう設定で梶井基次郎の檸檬のような文体の作品を書いて」なんて雑な指示をしただけでもかなりいい小説が書けちゃうChatGPTくんがメキメキ進化しつづけたらいつかこういう日が来るんじゃないかと思う。ーー仕事帰りの疲れたサラリーマンやOLの読者が電車に揺られながら「あの先生の〇〇って作品のような小説を書いて!」ってスマホのなかのAIくんに無茶振りすると電車が次の駅に到着する前にはもう、数万字程度の作品を作ってくれる、そんな日が。
本業でAIくんの技術革新を追っている身からすると正直あと5年以内にそういう日が来ると思っている。
感性の老化
実は頭の老化よりも、感性の老化のほうが小説を書くときに困る。感性が丸くなった分、尖った作品が書きにくくなるからだ。
たまに70歳、80歳を超えてもぶっとんだ作品を書く先生もいるが(筒井康隆御大とか)、ああいうお方は天然記念物である。
筒井康隆御大が70代のときにラノベを書いたことがある。当時高校1年生だったわたしはすぐにそのラノベ『ビアンカ・オーバースタディ』を買ってきて読んだのだが、精子を顕微鏡で観察するヒロインに「え、えげつない……」と絶句してしまった記憶がある
時をかける少女はラベンダーの匂いが漂うが、ビアンカ・オーバースタディで香るのは栗の花の匂いだ。
でも老化もいいことがある
嫌な記憶が薄れる
これは救済措置だ。とてもありがたい。思い出したくない黒歴史がたくさんあるもん。
太宰治が終戦間際に書いた「お伽草子」という作品がある(日本の御伽噺をモチーフにした短編集で太宰作品の最高傑作だと個人的には思っている)。そのなかの『浦島さん』で、最後に玉手箱の煙でおじいさんになった浦島太郎が不幸だったかどうかについて、太宰はこんな言葉を読者に送っている。
人のダメさや弱さが許せる
わたしは1992年生まれのゆとり世代だが、あまり学校でゆとり的な何かを体験した記憶がない。むしろ逆だ。あの頃の学校では新自由主義の思想ーーつまり過剰な成果主義や自己責任論が流行り、そこに昭和の根性論が混ざってしまったので地獄の様相を呈していた。学校という環境ががおかしいのではと思ったことは在学中一度もない。本当にゆとりのある教育を受けていたら、中学生のときの同世代が次々と亡くなり、2006年の今年の漢字が「命」になることなんてなかったろう。
自分の最大の不幸はその地獄に最適化してしまったことだ。そのせいで29歳頃まで性格がカイジの利根川のような人間だった。あくまでカイジの利根川で、中間管理録トネガワのほうの利根川ではない。はっきりいってあんなヤツが周囲にいたら誰だって嫌うだろう。自分はなんで周りから嫌われているかわからず苦しんだ記憶がある。だがここ最近いろんなところが老化し、結局自分はダメなヤツだとひらきなおれた。同時に、他人の弱さを許せることができた。仲間もできた。いまが人生で一番楽しい。
人間、いつかは老いる。老いたときは新しい人生の始まりだと思ったほうが気が楽であるのだ。