8月28日、また帰る場所は同じ。
チェコに来て、ようやく生活にも慣れた感じがあった。
朝はウイスキー藤村に作ってもらったパスタを食べる。
大事なことだから、言うべきなのだが、
ウイスキー藤村氏には、宿や食べ物、人などをおごってもらっている。
感謝すべき事実なのだ。
それもたくさんたくさん、、、3日チェコに住んで常にそんな感じだ。
有難いという感謝と共に、一抹の情けなさも感じてしまうのが心情というものだろう。
これは、感謝の気持ちがありすぎて、いくら返せるだろうか?なんて考えてしまうのが当たり前なのだと思う。
眠気眼で、遥か先を眺めながら、思いは1つだった。
チェコで、なんとしてもリベンジしたい。
というのも、チェコで60、90ckを稼いできて、実力的な実感が薄いからなのだろう。
リベンジというのは、完全に自己完結した欲求の話。
ウイスキー藤村の知り合いで、チェコに住む日本人に会うため、現在住んでるプラハからオルモウツに移動することになった。
そこで、プラハを出る前に、一勝負しておきたかった。
広場で、止められてもいいから、演奏やパフォーマンスをやってみたい。
ちょうどこんな感じの広場で、もう一度路上LIVEすることにした。
何がダメなのかはだいたい分かっていた。
まず、『場所』
路上LIVE(海外ではバスキングと呼ぶ)は、日本でもそうだが、基本路上でパフォーマンスをするのに許可が必要だ。
だが、もちろん、多くの人は許可など取らずにパフォーマンスを行っている。
(そもそも、許可おりないし。)
場合によっては、警察官から止められるだけでなく、法的に違反とみなされることもある。
(フランスのパリはやっちゃいかんらしい)
そのため、まずバスキング可能な場所なのかを考慮しなくてはならない。
次に、『相手の不安を取り除く』ことだ。
日本人の坊主頭でギター弾きながら、なんかよくわからない日本語の歌を歌ってる人。
なんて、
チェコの人からしたら、違和感と不安しか無い。
そもそも言語が通じるのかわからないだろうし、入ってくる情報が意図せず多い。
そこで、ボードを作った。
見よ、この英語力皆無の中身のないボードを。
だが、これでいい。
そのへんに落ちてたダンボールの破片に、マジックペンで、こんにちは。僕は日本人です。ありがとう。(何に!???)カメラでとってもええよ。
などと、書いただけ。
これだけで、こちらに対する印象を絞ることが出来る。
また、ボードを書いたことによって、相手がコチラに近寄って、見てくれる。というムーブが発生しやすい。
事実、それは何度も起こった。
結果、このような工夫で、わずか一時間の路上LIVEでこのぐらいのお金が集まった。
見てもサッパリ、、、だと思うのでウイスキー藤村の反応も見てみる。
どうやら、これだけあれば、ふつうに一週間は食い物に困らないらしい。
リベンジ成功したなぁ。という感触があった。
その後、プラハの街をあとにし、オルモウツへと向かった。
オルモウツは、プラハよりもっと田舎だった。(雰囲気が落ち着いている)
とは言え、やはりヨーロッパだなぁ、、、という印象の街。
30年戦争で刺さった砲弾が今も尚、塔に残り続けているという建物や、多くの協会。
庁舎も、立派な建物になっている。
「幸福の王子」の話とか、イジー・トルンカが描いていたおじいさんの住まいを思い立たせた。
ハンバーガー2つ(このサイズ、ちなみに手のひらぐらいある)と、ケバブを食べた。
両方共、めちゃくちゃめちゃくちゃ美味かった。
さくらいさんという、日本人男性の方から奢ってもらった。
(ほんと、奢ってもらってばっかやなー。。。と)
この1番左の男性の方ね。
これは、ワイン発酵する過程途中のものを飲んでいる。
ワインはぶどうジュースを酵母で発酵させて作られるので、これはほんのりお酒を感じつつ、微炭酸(発酵してるからね)で、甘さもある。
といった感じ。
ちなみに、俺はお酒がクソほど弱いのでほとんど飲めんかった。。。。。。。
大きな犬も居た。
イギリスでもロンドンでもないが、ジャックザリッパーでも出そうな街並み。
シャーロック・ホームズとか思い出す。
今日もいろんな人たちと会話をした。
音楽のこと、チェコのこと。
日本人のこと。自分のこと。
相手のこと。
話して話して、それで、
記憶の容量全開で、埋め込みまくったけど、全部を理解できた気はしなかった。
悔しいので、寝てやろうとおもった。
1つ、わかったのはイタいトコロつかれるなぁ〜〜〜。ってなった時、
それが今自分に足りてない部分なんだと思わされる。ということだ。
たとえば、論理的思考。ロジカルシンキングが苦手だ。
だからといって、感情に振り切れば、気付きや、焦点は濁ったものを映す事が多くなる。
つまり、真理からは外れる。
アーティストの多くは、感情や気持ちで画や漫画、歌を書いていると思われがちだが、
彼らの頭には、そうしたロジカルな思考がしっかりと存在している。
つまり、感情を語るに、感情そのものでは語ることができない。
という事実に気がついたのだ。
思いのまま書くのは簡単だが、それでは真理が抜け落ちてしまう。
人に寄り添うことは、確かに必要であるが、感情論ならば、それはエゴであり押し付けに近い。
相手をわかった気になる。
というドツボに目を向けなくなってしまうと思った。
真理にたどり着かない場合、それはいとも容易く崩れ去る。
早い話が、薄っぺらい、味もしない話を延々と語り続けるみたいなものだ。
さもそれが、当人にとって、視聴者にとって、有難いモノのように。
大変必要で、大事なもののように。
言葉は安易で複雑だ。
理解し切る事は、本当に難しいだろう。
だから、僕は、その言葉を思いを、声になって吐き出す瞬間まで
キッチリお届けしていきたいなぁ。と思うのだ。
それが正解か。不正解かは。
きっと誰かが、勝手に決めてくれるだろうからね。
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