シーシャの煙に巻く。
帰郷である。
とある用事を済ませるために久々に帰郷した。
と、言ってもコロナ以後帰るのはこれで何度目か?全然久々では無いでは無いか!
などと思いつつも、実際にコロナ以後地元の友達には会えていないのでほぼ同じような事なんじゃ無いだろうか。
用事を終えても日々の仕事はあるわけで、
今日は山形に出来た初の!(初と言っていい!だって競合となる店はねーから!)シーシャ屋さんへ赴いた。
画像はイメージである。
店長さんは元々隣町の方らしく、地元トークに花が咲く。
なんだか最近、やたらと地元を想うことばかりある。
僕の地元は、お世辞にも楽しいところ、ではない。
子供は親を見て育つと言うが、なんてことはない。周りの大人どもは全然楽しそうにはしていなかった。
まぁ、みんながみんな、とまでは言わないが。
とても自然豊かな街である。
春には桜を見ながら川辺で団子を食べたり。
夏には花火を見たり、カブトムシなんかを捕まえた。
秋には落ち葉や銀杏の実を拾ったりした。
冬にはちゃんと大雪が降り、雪に突っ込んだりして遊んだ。
人間関係は…
どうなんだろう?
久々に中学の友達と電話をした。
コロナ関係なく、俺はどこかへ出かけてしまう人間だから、会えなくなってだいぶ経つ。
友達と昔話をした。
誰が結婚しただの、いまあいつは何してるだの。
こーゆーくだらない話すらも時折愛おしくなる。
「そーいえばさ、あの子4年前だかに亡くなったよね」
その子は僕が初めてお付き合いをした女の子だった。
「自死したらしいよ」
慣れてしまったかのように
「そっかー、かなしいねぇ」と僕。
人の生き死になど慣れてしまいたくも無いが、人には人の事情があるのだろうな。
自ら情報を統制した僕は、周りからそんな話を聞こえなくした。
理由はたくさんあるけど、多分めんどくさいのが大きな理由だ。
特に激しく喜ぶこともなく、悲しむこともなく。
これまでの時間に愛おしさをもたらす為に、過去の話の多い知り合いはサラサラと砂のように剥がれ落ちた。
それも仕方ない。
現にあまり悲しくはない。
もう、28年生きてきて、既にもうこの世には居ない。
そんな人もいる歳なのかもしれない。
とにかく人の死に対して、ドライだなぁと思いながらも電話を切った。
友達が最後に
「まぁ、コロナじゃなくても、いちいち会ったりしなくなるんじゃねーか?この歳になると」
僕は「うーん、かなしいけどねぇ」
僕はジジイやババアになっても美しいものを見ていたい。
何というか、それは心やその在り方だ。
地元で教鞭を取る友達も。
ドイツで路上ライブをしていたセルビア人も。
アホづらしながら麻雀していたあいつも。
このままずっと見ていたいと思える時間に価値を感じるなぁと。
既に居なくなった誰かを数えるとセンチになるな。
まだまだ人生は続く。
しかし、変わり映えしない毎日が続けば、体感速度は加速する。
くだらない事も。
感情的な日々も。
愛おしくなるように。
複雑なクシャクシャした思いがバスケットボールのように弧を描いて記憶のゴミ箱へと消えた。
現在地点をたまにこうやって確めるが、
悪くない。
昔を見ても、今を見ても、これからを見ても、なんとなく生まれてから後悔したことが無いのだ。
結局なんとかなる。
なんとかなる、というより、なんとかしてしまう。
そーゆー、物差しでは測りきれない才能があると昔から自負している。
まだ生きていたいなぁ。
死ぬには勿体無すぎるほど、欲望や願いは尽きない。