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「感情」の言語化

インタビューを聞いて感じる「違和感」

ふと、思った。
人の「悔しい」という感情は、共通なのだろうかと。

成人の日(1月13日)に行われた全国高校サッカー選手権の決勝は残酷な形で幕を閉じた。PK戦で決着が付いたのだ。

私は、その光景をスタジアムで見た。
勝ったチームは我を忘れて喜び、敗れたチームはその場で泣き崩れる。
どちらかを応援していたわけではない私は両チームの様子を見ていたが、なんともいたたまれない気持ちになった。

一人のシュートが勝者と敗者を一瞬で明確に分けてしまう。
敗れたチームの選手は”ゲームの敗者”となった瞬間にどのような感情を抱くのだろうか。
絶望感。後悔。
いや、そんな単純な言葉では表せないかもしれない。
なにがなんだかわからない混乱状態かもしれない。

しかし、時間が経過し、ゲームにおける敗者へのインタビューを聞くと、
大半の選手が結果に対して「悔しいです」と答える。

どの大会でも、どのスポーツでも敗者は皆共通して
「悔しい」と表現する。
それ以外の言葉で感情が表現される場面は少ないように感じる。

地区大会の1回戦で敗れたチームと全国大会の決勝戦をPK戦の末に敗れたチームが抱く「悔しい」は同じなのか。
練習を本気で取り組んでこなかったチームと、その大会にすべてを懸けてきたチームが抱く「悔しい」は同じなのか。

違うに決まっている。

しかし、敗者は皆、「悔しい」という共通の言葉で感情を表現する。

ここに、私は大きな違和感を持つ。

感情はきっともっと複雑なものであり、他者が簡単に理解できるようなものではないのではない。
敗者のインタビューを聞いたり、記事を見たものは「悔しい」という言葉を自分の「悔しい」に当てはめて捉えるだろう。

スポーツの試合後のインタビューとして有名なのは北京オリンピックでの北島康介氏のインタビューではないだろうか。

「何も言えねぇ」

この言葉から感情を言語化することがどれほど難しいのかが分かる。
凄まじいプレッシャーを受け、すべてを懸けて戦った試合で優勝することができた時に抱く感情を今の僕が理解できるはずがない。

北島氏も後に、「実は言いたいことは山ほどあった」と語っている。
しかし、試合直後の興奮状態で湧き上げてくるその感情を言語化し、他者に伝えるということはできなかったのだろう。

「感情」の言語化

そもそも、感情とは何か。

「感情」
物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある事象に対する態度や価値づけ。

goo辞書

感情(物事に感じて起こる気持ち)の言語化は可能なのかどうか見ていきたい。

我々にとっては生まれた時から「嬉しい」「悲しい」「悔しい」
という形容詞(言葉)が存在し、幼少期に絵本やアニメを見て自らの感情と照らし合わせながら形容詞として自分の感情をラベリングしてきた。
そして、心に浮かぶ内なる感情を、言語に翻訳して外部化している。

もしも、このような感情を表す形容詞が存在しなければ、他者に自分の感情、つまり気持ちを伝えることができない。

先ほど挙げた「何も言えねぇ」や「言葉にできない」というのは、パニック状態にあり最適な言葉が見つからない、もしくは現在の自分の感情をこの世に実在する言葉では表現不可能ということなのではないだろうか。

辞書に載っている感情を表す単純な形容詞では、今の感情を表すことができないということは往々にして起こりうる。

例えば、ライバルであり親友だと言える友人が何か大きな成功を成し遂げた時の感情を思い浮かべてほしい。

嬉しいという感情が先行するかもしれないし、悔しいという感情が先行するかもしれない。両方が入り混じった感情かもしれない。
そこに、誇らしさが入ってくるかもしれない。

単なる「嬉しい」「悔しい」では表現できない複雑な感情が生み出される。

過去を振り返ってみればこのような感情を抱いたことはあるのではないだろうか。

これらを他者に伝えようとすると本来は複雑である感情をどうしても、単純な言葉に変更せざるを得ない。

こう考えると、感情を言語化し他者に伝えることはとてつもなく難しいということがわかる。そして、異なる解釈をされる恐れも含んでいる。

感情は自分だけの物

感情を言葉にすることは、非常に便利な手段である。
しかしながら、その便利さがゆえに感情が型にはめられ、本来持っているはずの深みや複雑さを失ってしまう危険性があるのではないだろうか。
「悔しい」「悲しい」「嬉しい」などの言葉は、確かに感情を表現するうえで役立つ。しかし、それらはあくまで便宜的に感情をラベリングするための道具にすぎない。

例えば、「悔しい」という言葉一つをとっても、その感情の背景には多様なニュアンスが存在する。
競争に敗れた時の悔しさと、大切なものを失った時の悔しさは、その質が全く異なるにもかかわらず、同じ言葉で括られてしまう。こうした言語化の過程で、感情が持つ本来の奥深さが単純化され、時にチープなものとして扱われてしまうことがある。

また、現代では「言語化」の重要性が強調されることが多い。
感情や考えを適切に言葉にし、他者と共有する能力は、社会生活を営む上で必要不可欠とされている。しかしながら、言語化できない感情や、あえて言語化しない感情にも価値があるのではないだろうか。それらは他者との共有を前提としない、自分だけが知る特別な感情として存在する。そして、そうした感情こそが、人間の内面を豊かにし、自分自身を深く知る手がかりとなる。

さらに、言葉そのものが時代や社会の影響を受けて変化する点にも目を向ける必要がある。
例えば、「だるい」「うざい」「渋い」といった言葉は、時代とともに感情や状態を表すためのラベルとして定着してきた。しかし、これらの言葉がどれほど本質的に感情を表現できているのかは疑問が残る。こうしたラベリングが、感情を単純化し、その奥深さを見失わせる要因になりかねない。

言葉は、感情を整理し共有するための有用な道具であることは間違いない。しかし、その道具に過度に頼ることなく、言語化されない感情や、自分だけが知る特別な感情を大切にすることも必要である。
感情は他者が手を加えることのできない、私秘的な領域である。そこには、自分だけが向き合える深遠な価値が存在する。

このように考えると、感情を無理に言葉にするのではなく、そのままの形で受け止めることが、自己との対話を深める重要な手段となるのではないだろうか。
言語化が重要視される現代だからこそ、言葉に頼らず、自分だけの感情を守り抜く姿勢が、より一層求められている。

感情をこの世に存在する形容詞に当てはめるのではなく、異だ織田kン上そのままを受け入れ、自分だけの宝として大事に扱う姿勢が大事なのではないだろうか。


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