自らの好奇心で世を豊かにした男
[トーマス・エジソン]
アメリカの発明家、起業家。生涯に約1,300もの発明をし、発明王と称された。「天才は1%のひらめきと、99%の努力である」が有名な言葉である。
〜さて、今回から「美しき人生」と題して人物史を学んで、成功者の人生を綴り自身の成長にしていきたい。皆様も片鱗だけでも感じて美しき人生を共に歩めれば幸いです〜
1847年2月11日生まれ。アメリカのオハイオ州で7人の末っ子として生まれる。1840年といえば、江戸時代水野忠邦が天保改革令を出した年。中国では、アヘン戦争が起こった年である。全世界で植民地の争奪戦で激動の年であった。
エジソンは少年時代、好奇心旺盛で事あるごとに「なぜ?」を連発して、あまりのしつこさにゆえに退学を勧められた。その後、小学校の教師である母から勉強を教わり、自宅の地下室で科学実験に没頭する。
17歳のエジソンはカナダの駅で電信係として就職。しかし、ただ決められた時間に信号を送る仕事だった。
【エピソード1 】
退屈な仕事に飽きたエジソンは時計を使って自動で信号を送る電信機を発明した。これがエジソンの第1号の発明品であった。あとは電信機に任せて寝ていてたところ、上司に見つかり叱られた。
【エピソード2 】
21歳の時に議会における賛成票と反対票を瞬時にわかる電気投票記録機を発明した。初めての特許取得であった。投票にかかる時間を大幅に短縮できるものであったが少数派の議員による“牛歩戦術ができなくなる”という理由で全く採用されなかった。
24歳で結婚。3人の子供に恵まれる。多忙によって家に帰れなくなった。妻は体調を崩して引きこもりがちになり、1884年にこの世を去った。30歳のエジソンは蓄音機を実用化して名声を獲得した。その後、電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを商品化した。
エジソンは白熱電球の発明者ではなかった!?
電球のフィラメントの改良に力を注いだ。日本の”京都八幡の竹“を用いるなどして成功にこぎつける。
家電、発電、送電まで含む電力の事業に成功し、もっとも大きな功績を残す。
エジソンが映画スタジオを設立してたとは…
1893年アメリカ初の映画スタジオを設立。白黒フィルムの製作を始める。マンハッタンでそしてブロンクスで映画スタジオを開き、約1200本のフィルムを制作した。
晩年、エジソンは研究所にこもり、霊界との通信機の研究を続けた。自動車王のヘンリー・フォードはエジソンの電灯会社の元社員で生涯の友人であった。享年84歳。84年の生涯を閉じた。
「人の批判を恐れてはならない。それは成長の肥やしとなる」
「ほとんどすべての人間は、もうこれ以上アイデアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、そこでやる気をなくしてしまう。勝負はそこからだというのに」
「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ」
世界の成功者に共通するメッセージは「諦めないこと」なのだろうか。人に批判されようが自分が信じた道を行けば必ず納得できる。人にバカにされようが自分は自分。世のために何をなせれるか。自分が決める。そういう人生を歩んでいきたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?