エレファントカシマシストーリー
昨年(2023年)、ちょっと宿題的な感じで書いた文章がありまして、それなりにがんばって書いたものだったので、投稿しとこうと思います。
内容は「エレファントカシマシ」についてです。
その昔、エレカシを聴き狂ってた時期があり、当時のことを思い出しながら、ルポタージュ風にまとめてます。
「デビュー→長い低迷期間からブレイク→また低迷→再ブレイク」という道を辿ったバンドは私の知る限りでは思い当たらず、なんというか「エレカシ≒宮本浩次の凄まじさ」のようなものを誰かに伝えたい気持ちで書きました。
事実誤認などありましたらご指摘ください。
少しでもエレカシというバンドと宮本浩次という人間の魅力が伝われば嬉しいです。
エレファントカシマシストーリー
~何度でも立ち上がれ~
今年2023年、デビュー35周年を迎えたエレファントカシマシ。その長い歴史の中でも、特に波乱に満ちた、1996年から2007年に掛けての活動に焦点を当て、エレファントカシマシの軌跡、戦う男宮本浩次の歩みを辿る。
■再デビュー、その後のブレイク
1988年のデビューから1994年までの6年間、エレファントカシマシは、孤高のバンドとしてその存在感を示してはいたものの、CDセールス及びライブ動員数において、商業的な成功とは言い難い状態にあった。そして1994年のレコード会社との契約解除、事務所解散により、エレファントカシマシは音楽マーケットから完全に切り離された状況へと身を置くこととなる。
それでもその後、ロッキングオンの後押し、フロントマン宮本浩次の地道な営業活動などにより、新たな体制のもと、エレファントカシマシは再出発を果たす。
ポニーキャニオンからの再デビュー、1996年発売アルバム『ココロに花を』は、名プロデューサー佐久間正英を迎え制作された、記念すべきエレファントカシマシ初の外部プロデュース作品である。この選択が功を奏し、それまでのエレファントカシマシにとっては快挙とも言える、オリコン10位という結果を残す。デビュー以後、くすぶっていた混迷の6年間を一気に引っくり返すようなヒットとなり、新たなファンも獲得。エレファントカシマシは激動の季節を走り始める。
続く1997年発売アルバム『明日に向かって走れ-月夜の歌-』、1998年発売アルバム『愛と夢』も、引き続き佐久間正英と宮本との共同プロデュースにより制作された。
右肩上がりの売上とライブ動員数。1997年のドラマ主題歌のヒット、1998年の武道館2DAYSの成功。安定の人気を誇りつつあったエレファントカシマシは、このまま不動の地位を築いていく、・・・かに見えた。
■迷走と原点回帰
2000年、レコード会社をポニーキャニオンから東芝EMIへ移籍する。この年に発売されたアルバム『good morning』は、根岸孝旨(当時はCocco、くるり、奥田民生等との仕事を中心に活躍)との共同プロデュース。宮本自身の打ち込みによるデモテープがベースとなり制作された、粗削りな中にも、宮本の熱のこもったロックアルバムとなる。
2002年には、小林武史(言わずと知れた、サザンオールスターズ、Mr.children担当プロデューサー)プロデュースによるアルバム『ライフ』を発売。宮本が小林へ直々にアプローチをかけ作られた一作である。宮本が持参したデモテープに、小林はいたく心を打たれ実現したという。前作とはまた趣を変え、抒情的な曲が並んだ。
2作共に、惰性では決してないエレファントカシマシの意欲作だ。ただ、宮本のソロ作品的な要素を多分に含んでいたこともまた事実としてあった。宮本主導がより色濃く出た作品群。実態の無くなりつつあったバンドとしてのサウンド。数字的な結果としても実を結ぶことは出来なかった。宮本の中で何かのバランスが狂い出す。そして、エレファントカシマシは、再び混迷の時を迎えることとなる。
同時期、強烈なキャラクターを持つ宮本浩次には、多方面からのオファーも殺到していた。その声に応えるように、宮本は、ファッション誌の表紙、CM、果てはテレビドラマ出演といった、音楽以外での活動の幅も広げていく。
運転免許を取り、高級車を購入し乗り回す日々。有名女優との熱愛報道・・・。世間での知名度の高まりと比例するように、宮本の私生活もどんどんと派手なものになっていく。盟友とも呼べるロッキングオン山崎洋一郎は近年、その当時、宮本の自宅に招かれた日のことを回想し、愛車のポルシェを自慢する宮本への大きな違和感、そしてその時感じた自身の困惑を語っている。「この人(宮本)どうしちゃったんだろうと思ってた」と。
一方で、そんな派手な生活とこちらは反比例するように、エレファントカシマシのCDセールス、ライブ動員数は、じりじりと下降線を辿り始める。1998年から2000年まで、毎年新春、2日間にわたって行われていた日本武道館ライブが、2001年には1日のみの公演となり、更にはチケットが売れ残るという事態にまで陥るようになる。そして遂に2002年には、新春恒例となっていた日本武道館ライブも開催が見送られることとなった。
「武道館では、動員が減ってくると、スタンド席の左右のところに幕が張られるんですが。で、それを見て、悲しかったのは覚えてますねえ。」(単行本『東京の空』より)。その当時の心境を語った宮本の言葉だ。
そんな状況の中、宮本はある決断をする。おざなりにされつつあった、“バンドサウンド”への原点回帰である。
前作『ライフ』と同年の2002年、ミニアルバム『DEAD OR ALIVE』を発売。プロデュースは宮本浩次。外部プロデューサー、アレンジャーの起用はしない。打ち込み、装飾的な音の廃止。メディアの露出も控え、宮本はバンドへ全精力を注いだ。そして収められたエレファントカシマシ4人だけの生身の音。その気迫に満ちた思いは、「生か死か」というタイトルにも込められた。オリコン86位。それでも宮本の決意は変わることはなく、次回作へ向け猛進する。
■宮本を見舞ったアクシデント
だが、そんな矢先、宮本に予期せぬ試練が襲い掛かる。
全財産の消失。宮本は、金銭面の管理を任せていた人物に、すべての財産を奪われるという大きなアクシデントに見舞われる。
経済的な面の話しだけではない。信頼を寄せていた人物からの裏切りという事実。宮本が受けた精神的な打撃は想像に難くない。
2003年、宮本は高級マンションの引っ越し、車や家具なども売り払うという窮地に立たされる。しかし、その生活面での困難が、結果的に音楽と対峙する環境を生むこととなる。
■まかれた種、上がった狼煙
同年6月、エレファントカシマシはシングル3枚を同時発売、翌月にはアルバム『俺の道』を発売する。前作同様、宮本プロデュース作品。割れるボーカルの音も、外れるギターのピッチも、逆にバンドの息づかいを強烈に印象付ける。<奴らには言って置け 「オレは確かに生きてる」って>、<今日現在このニッポンじゃあ、さほどオレの出番望んじゃないようだが>、<季節外れの男よ ひとり歩め>。前進する気迫と相反する自虐とも取れる歌詞たち。前作からの原点回帰を更に推し進めたようなアルバムとなった。
また、この年、エレファントカシマシは、〈BATTLE ON FRIDAY〉と銘打たれたライブツアーを開催する。数カ月にわたる、幾多の若手バンドとの対バンツアーである。すべてを終えた後、宮本は「完敗でしたね。現状が出たというか。」としながらも、「現状が認識できたという意味でもとてもよかった」と振り返っている。
同年9月、『俺の道』ツアー初日、新宿LIQUIDROOMでは宮本の鬼気迫る圧巻のパフォーマンスが繰り広げられた。売上の低迷、宮本の私生活でのトラブル、対バンツアーで感じた敗北感。そしてこの日も埋まりきらなかった会場。だが、すべてを手放した宮本に恐いものはなかった。4人だけが立つ殺風景なステージは力強く、贅肉を切り落とした鋭利な音は聴くものを圧倒した。「オノレの道を行け オレはロック屋 オレはロック歌手」。宮本のゆるぎない覚悟が歌へと形を変え、絶唱が地面を揺らす。ロックバンド・エレファントカシマシ、そしてこの日の宮本に迷いはなかった。
2004年3月、アルバム『扉』発売。音楽プロデューサー熊谷昭との共同プロデュースとなる。熊谷は、ポニーキャニオンからの再デビューに大きく関わった、陰の立役者と言える人物である。そして、時を経て、熊谷は再びエレファントカシマシと歩みを共にすることとなる。このアルバムでは、プロデューサーとして、宮本と作品を作り上げた。前述の対バンツアー〈BATTLE ON FRIDAY〉、今作『扉』制作過程を追ったドキュメンタリー映像『扉の向こう』(フジテレビ系にて放送、映画としても上映され、その後DVDとして発売された)、これらの企画は熊谷の手によるものである。熊谷のこのアクションは、エレファントカシマシのライブ活動や、宮本の創作に対するテンションを保つための支えにもなっていたのではないだろうか。エレファントカシマシ再浮上の種はまかれた。
そのわずか半年後の2004年9月、アルバム『風』(久保田光太郎との共同プロデュース)が発売される。短いインターバルでの発表になるが、焦燥感は感じない。見定めたものは、くっきりとエレファントカシマシの先に見えていた。
2006年、アルバム『町を見下ろす丘』発売。アルバムとしては、8年ぶりとなる佐久間正英プロデュース作品である。彼もまた、熊谷と同様、1996年に復活したエレファントカシマシを後押しした重要な人物の一人だ。宮本は佐久間へ思いを託した。
セールスは振るわなかったものの、前4作を踏襲した、ひとつの到達点とも言える充実した内容のアルバムとなる。東芝EMIからの最後のリリース。エレファントカシマシは大きな区切りを迎えた。
そして、『good morning』以降、数年間に及ぶ葛藤の、すべての回収が始まろうとしていた。
2007年1月7日、Zepp Tokyo エレファントカシマシ単独ライブ。
全セットリストを終え、熱狂の余韻の中、最後に宮本はアコースティックギターを抱え、椅子に座った。「とてもいい曲ができました。聴いてください」。宮本のかき鳴らすギターの音と歌声がフロア中に響く。「さあ がんばろうぜ!」まだアレンジも出来ていない、生まれたばかりの歌。聴衆は静かに聴き入った。『俺たちの明日』。その歌はこう名付けられた。エレファントカシマシ復活の狼煙は上がった。
■見事な復活
2007年11月、東芝EMI移籍後初のシングルとして、ユニバーサルミュージックより『俺たちの明日』は満を持して発売される。積極的なプロモーション活動、CMソングにも起用され、エレファントカシマシの音楽が、再び多くの人の耳に触れ、躍動を始める。そして、カップリング曲のアレンジを担当した、若手音楽プロデューサー蔦谷好位置との出会いが、その後のエレファントカシマシの更なる飛躍へと繋がっていく。
2008年、アルバム『STARTING OVER』発売。オリコンチャート7位。エレファントカシは見事な大復活を果たす。思いが形となった。オリジナルアルバムとしては、実に11年ぶりとなるオリコンTOP10入りである。プロデュースは蔦谷好位置、YANAGINANが曲ごとに担当。特に蔦谷は、ライブサポートも行い、「僕より10歳も若いのに、音楽の才能は87倍」と宮本に言わしめるほど、エレファントカシマシになくてはならない存在となる。初めての年下のプロデューサーの起用。エレファントカシマシに新しい血が流し込まれる。すべてのピースが揃ったエレファントカシマシの姿に綻びはなかった。
■明日へ向かって走るエレカシ
その後のエレファントカシマシの活躍は、破竹の勢いと言っても差し支えないだろう。次作、アルバム『昇れる太陽』ではオリコン3位を記録。以降も順調にアルバム、シングルを発表し、いずれも好調なセールスを見せる。2014年には、エレファントカシマシ史上最大規模となる、さいたまスーパーアリーナでの単独ライブを開催、大成功を収める。翌年には、15年振りとなる新春日本武道館2DAYSを行い、あの時の屈辱の借りを返した。翌2016年、NHK紅白歌合戦への出場。正に国民的なバンドにまで上りつめることとなった。
そして2023年、デビュー35周年を迎えたエレファントカシマシは、3月から4月に掛け、横浜アリーナ、有明アリーナ、日本ガイシホール、大阪城ホール、全会場2DAYSという、とてつもないボリュームの、自身初となるアリーナツアーを開催、多くのファンを魅了した。
以上、1996年から2007年の活動を中心に、エレファントカシマシの軌跡を振り返った。
<更に大きなぶざまを掲げて行け 何度でも立ち上がれ>。
2002年の楽曲、『何度でも立ち上がれ』で宮本が歌った言葉だ。
エレファントカシマシは正にその言葉を体現するように歩みを進めた。
エレファントカシマシの物語はまだまだ続く。
大きなぶざまをエサにして、何度でも立ち上がる。