【人が持つ善意を信じたい。】
《昨日の帰り道》
若い女性が道端で酔いつぶれて倒れていました。
寒さが厳しい夜、このままだと大変なことになるかもしれないと思いました。
しかし、僕は男性なので、何か変な誤解をされるのではないかという不安も頭をよぎりました。
幸い、妻が一緒にいたので、彼女に頼んで女性に声をかけてもらいました。
意識があることを確認した後、タクシーを手配しました。
女性はギリギリのところで住所を伝えてくれたので、なんとか対応することができました。
タクシーの運転手さんには、彼女が意識が朦朧としていることを伝え、念のため僕が運賃を支払い、最寄りの場所まで丁寧に送ってもらうようお願いしました。
《善意と誤解の狭間》
今振り返ると、善意で行動を起こそうとする際に、「もし誤解されたらどうしよう」と一瞬でも躊躇してしまった自分が気になります。
女性が深夜に歩道で寝ているのは、寒さに関係なく非常に危険なことだと認識しています。
しかし、善意で助けようとすることすら悪用する人間がいるせいで、僕たちは常に「誤解されるかもしれない」という恐怖と向き合わなければならない現状があるのです。
もし昨日、妻が一緒にいなかったら、僕はどうしたのだろうと考えます。
その女性は酔っていて、僕が助けたことなど覚えていないかもしれません。
気がついたときに、僕がタクシーに乗せようとしていた場面だけを見て、誤解される可能性もあります。
また、通りがかった他の人が、僕の行動を「無理やりタクシーに押し込んでいる」と勘違いしてしまうことも考えられます。
こういった状況を思うと、とても恐ろしく感じます。
《善意が損なわれる世の中》
僕は、人は誰しも他者を助けたいという善意を持っていると信じています。
しかし、「もし誤解されたら?」という恐れがあると、人を助けること自体に躊躇してしまうかもしれません。
こうした状況を作り出しているのは、善意を悪用する犯罪者たちです。そして、その被害を受けた方が最も苦しむ被害者です。
しかし、その影響で「誤解」という形の二次被害が社会に残ってしまっている現状を、僕は非常に恐ろしく感じています。
人が持つ善意が尊重され、助け合える社会であることを願ってやみません。
はい、今日も正しい努力を積み重ね、「面倒くさい」をしっかり辞めて、ヒト、モノ、カネ、ジカン、オモイを大切にし、チャレンジを続けていきたいと思います。
皆様、本日もどうぞよろしくお願いします。
(本文は弊社スタッフ従業員ラインの送信をその旨としています。諸先輩方に送るのは大変烏滸がましくありますがご容赦くださいませ。)