なぜ使われた物を写真に収めるのか、いや収めければならない理由が分かった。
こんばんは、じったんです。
ちょっと今、自己理解が爆速に進んでて、
感情が揺らぎすぎて泣きそうになってて、
文章力には自信はありませんが、
noteという少し緊張感がある所で、
まとめた方が少し質があがるので
まとめて行きたいと思います。
まず美を知るためには、真を知った方がいいので、真をまとめたいと思います。
僕の真
小さいころ僕は喋りの発達が皆さんとは少し遅くて、お母さんと話す時も伝えたい事、分かってくれない事を一生懸命伝えようとしてましたが、伝えきれずうーうーと悔しがっていました。
そんな過去があり、今でも文章力や、
伝える力はあまり自信がありません。
僕の美
ついついやってしまうことはゴミや使われたもの、使われるものを写真に撮ったりすることです。
理由としては伝えれない分かってくれない僕の気持ちとゴミやドアノブやコップなどの気持ちと合わせ、一緒に共感し合って、安心したいからだと思います。
ちなみにタイトルの写真なんかは、
捨てさえされなかったかつて輝かしかった図鑑の友です。改めてそう考えると悲しみがより湧きます。そんな自分が勝手に作った妄想の中ですが、人に上手く伝えれなくて、いつしかそこに救いを求めるようになりました。
理由はこんな感じです。
ここからは収めなければならない理由を
書きたいと思います。
救われないそんなもの達をせめてもの気持ちで収めなければならない。
救われなかったもの達をその気持ちのまま写真に収めてあげたい、せめてもの気持ちで僕だけでも分かって、写真に収めなければならない。(僕が今なお救われないからこそだと思います。)(余談ですが、スラムに入ってからは色んな意味でまだ良くなってます。有難い。🙇♂️)
なのでこれからも物と一緒に、
苦しんで、楽しんでいきたいと思います。
ここまで読んでくれた方
ありがとうございました。🙇♂️
おしまい。