聖戦士ダンバインという「正解」を選んだ作品の話
何度もイデオンのことを記事にしていて、連鎖的に思いだす作品があったのでそちらについても雑記を書こうと思いました。
それは80年代ロボットアニメの代名詞、の一つである「聖戦士ダンバイン」のことです。
やっぱりドレイク軍の制服(鎧?)はショウには似合わないなぁと感じる第一話です。そしてトカマクというキャラの出オチ感に笑ってしまいます。
まぁ、イデオンファンなら大方ダンバインも好きな人が多いのではないかと思っています。キャラが湖川デザインでバッフクランの異星人感がバイストンウェルの異世界人とどことなく通づるものがあるなと、昔からの所感があります。
人間は「個」であることを捨てられない、を伝える作品
このダンバイン、異世界が舞台でありながらやたらショウ・ザマが「日本人」だと強調されています。一度地上に戻ってきた時はもちろんですが、後半本格的にこちらが戦場になってからもより顕著です。
1941年生まれで戦争の体験を持つ富野監督が、フィクションの世界であれ戦争を表現する時に「国」によって人が分断されているところに着目しているのは明らかでしょう。
古くは同じ大陸においても人間は国境を作り、そこで分かれて争いをする生き物でした、現代もですが。バイストンウェルにおいても同じですが、ガンダム、イデオンと人類の進化論を説いて結局「戦争を無くすのは無理」という到達点まで行ってしまった以上、「戦い続ける物語」を繰り返すようになってしまった…という風に取れるのが、ダンバインを含む作品群への個人的印象です。その中で、何を以てエンターテイメントとするのかとなるとこれはもう、平和を目指す…ではなくもっと原始的な部分での生物的活力、
「生き残りたい」
を描くことに物語の推進力、娯楽性を見出していると感じています。あるアニメ監督は「個」を無くすことで諍いのない世界を作ろう、という表現をしました。方法論としては一つの正解ですが、娯楽性はどうかと考えると…賛否両論ではありましたよね。
破滅に向かっていても、生き延びようとする人間を描く富野監督の作家性を、ここ最近の再視聴でまた認識するに至りました。
どちらが優れている、ではなくそういう意図を想像、推測することで理解がしやすくなるという鑑賞のコツなんですね。
掛け合わせの化学反応が生む、ミラクルの数々
ダンバインについては以前、主題歌が時代を先取りしていて凄かったな~的な記事を書きました。今回ダンバインについて考えながら書いていると、
・異世界+ロボットアニメ
という当時としては異色の組み合わせがまた、この勇壮な主題歌を生んだのではないかという考えに至りました。
ロボットアニメはやはり現実には存在しないメカを描くので未来的な設定になりがちで、それを中世的な世界観に落とし込むというアイディアが革新的だったのだと思います、これは前作ザブングルもそうですね。
創作というのは発案の時点で無数の選択肢を持っています。その組み合わせによってまだまだ新しい世界の可能性がある訳ですね。私自身も創作に足を突っ込んでいる人間なのでその広がりの計り知れなさはいつも感じています。本当にただの結果論ですが、このダンバインの組み合わせを選び取った40年前の富野監督は凄い、と思っています。
ちなみに…ダンバインで私の好きなキャラは、シーラ様です。
これも、数ある選択肢だったキャラ造形の一つの例で、監督は最初老人キャラを考えていたけど上の要望から美少女になったそうで。なので監督は「媚びたキャラ」として嫌っていたようですが、結果としてショウに淡い恋心を抱く、見た目以上に魅力的なキャラになったのではないでしょうか。
イデオンのキッチンもですが、湖川さんの描く清楚系美少女キャラが本当に好きです、私。主人公に恋心を寄せながら報われなかった切ない部分も含めて、ですね。
「これとこれ、どっちにするか」という選択でいつも正解が選べるわけではありませんし、選んでみてから変わっていく要素がいくらでもあるので複雑でらちが開かないのが創作です。あとから完璧な作品のように評価されることもありますが、ダンバインとて試行錯誤の嵐の末に生まれた「結果の一つ」でしかないのかもしれません。
しかし私はそれも含めて、40年前の空気感と併せて後世に残すべき傑作だな、と感じるのがダンバインですね。
最近ちょっと公式がイジり回して、上のはともかく下のは総スカンを喰らっていましたね。私も概ね同じ感想でした(苦笑)。
それでも、ダンバインそのものが古典として語り継がれつつも新しい映像になるネームバリューがある証明になっていますから、それは凄いことだと思います。
今年は、観るつもりがあるのに積み状態になっている映画、アニメ、ドラマなどを片っ端から消化していきたいな、と思っています。
ダンバインは視聴済み作品ですが、もう一周してみたい作品ですね。