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「素」の自分論②

だしの素的な自分

こんなにも偉大な論に並び立とうなどという野望を抱いているわけでもないのだが、ここでようやく、「素」の自分について話していこうと思う。

私たちが考えるありのままの自分は、『だしの素(もと)』をイメージするとわかりやすい。

ほんだし

だしの素は、色々な料理に欠かせない材料である。
味噌汁に肉じゃが、しゃぶしゃぶ、卵焼き。
私たち日本人は、だしを使った料理を日常的に口にしている。
(私もだし巻き卵が大好きだ。)

肉じゃが

ただ、だしの素を、それだけで食べることはない。
人も同じではないだろうか?
人間も、本当の意味で「ありのまま」の状態で存在することはない。

ただ、だしの素と同じように、色々な状況や周りの仲間たちに合わせて、色々な形に変身する。学校では学校の自分、職場では職場の自分、家庭では家庭の自分といったように。

その全部全部が「ありのままの自分」だよね、というのではない。

きっと素になる自分がいて、それはそれだけで姿を現すことはないのだけど、いつも周りに合わせて色々な形で表出しているのだ。

「素」の語源

素という字はそもそも、糸を染める様子を描いた象形文字であった。

糸を束状に結んで、染め汁に漬け込んでいたのだが、その結び目が白いままで残ってしまい、その部分を「素」と呼んだそうである。
つまりこの「素」という字は、染められることを前提としているのである。

考えてみれば、「元”素”」も一部例外を除いて、「結合」して様々な物質を形成している。

「素」の自分と中動態

メンバーの一人は、國分功一郎氏の著者で一躍有名になった『中動態』の概念と「素の自分」の関係の可能性を指摘する。

中動態

引用)WIRED
[https://wired.jp/2017/08/31/wrd-idntty-kokubun-kumagaya/](https://wired.jp/2017/08/31/wrd-idntty-kokubun-kumagaya/)

中動態=「主体」が活動過程に巻き込まれている。能動態と受動態という枠組みではなく、行為の外側か内側という枠組みにおいて、内側として表現される
⇔能動態で表現される主体は〈活動を一方的に発出する起点〉になる

國分氏は、能動と受動の形式が生み出した、意志と責任というシステムへの違和感を述べている。具体的な例が下記だ。


[…]たとえば、早く寝ることもできたのに(テレビゲームなどをして)ずるずると夜更かしした学生は、しばしば、意志が弱い、受動的な人間と評されよう。にもかかわらず、その同じ彼が、授業中の居眠りのために叱責される段になると、突如として、自由に選択できる意志をもった能動的な人物に転ずるのだ。「お前は早く寝るか夜更かしするかを、自由に、自分の意志で、能動的に選択できる状況にあった。さて、お前は夜更かしすることを選択した。そのせいでいま、お前は授業中だというのに居眠りをしている。居眠りの責任はお前自身にある。お前は叱責されてしかるべきだ」というわけだ。ここから分かるのは、人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものとみなしてよいと判断されたときに、能動的であったと解釈されるということである。(26頁)

「素の自分」的に考えてみよう。

ある日の夜中には「素」はずるずるとゲームをしてしまう「私」になってしまっている。

ただ、「素」から「私」がそういう人間かと言われればそうではないし、「素」はいつもずるずる夜ふかししてしまう「私」に変化するかと言われればそうでもない。

それは、環境の問題だったのかもしれない。

「素」と「素が変化した自分」
責任の所在を問うことや、あるべき自分でいることは、簡単なことではない。

それでも、「素」という概念を取り入れることで、
「こんなこともできないなんて私はだめだ」とか、「ゲームばっかであいつはだめだ」とか、そんな考え方ではなく、もう少し視野を広げて人を捉えられるようになるかもしれない。

「素」は、環境や周りの仲間が変われば、行動が変わる可能性を示唆している。

素はいつだって、周りの環境と合わせて、「私」として表出するものなのである。

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