否定ではなく受け入れた上での創作
ファッションは残酷
クリスマス。
大人は子どもに言う
「良い子にしてたらサンタさんがプレゼントを持ってくるよ」
って。
頑張って家のお手伝いをした。
玄関の靴も並べたし、宿題もやった。
冬にプレゼントは届いた。
今ならそのプレゼントのレシートすら透けて見える。
じゃあファッション学校はどうだ
「努力して技術と表現を磨けば憧れるデザイナーになれる」
そんな可能性をチラつかせて。
そうやって筆をもたせ、ミシンを踏ませて
服という形を作っている。
その先に何があるのか知らないまま。
毎年、何億枚と形としての服が捨てられている
酸素のように無意識に消費し、吐き出した二酸化炭素の存在すらも忘れて、次の酸素を吸う
この時、酸素はお金であり、形としての服であり、欲望そのものであり、時間である。
この繰り返しの名前を資本主義と呼ぶ。
しかし、俺等は知らなかった。
聞かされていなかった。
デザイナーは資本主義の一部分になることだと。
俺等は格好いい服が作りたかった。
ただそれだけだった。
私は将来が気になる。
多くの富と、幸福と、命をくれたが、それは箱だった。
中身は水銀であり、メタンであり、低賃金労働だった。
俺等はそんなことをしたかったのか。
新しいトレンドが生まれては消え、生まれては消え、生まれては消え、消えていったものの中から蘇らせて、それもまたいつか死にを繰り返す
その死は新たな生をより美しく見せる
そして、その繰り返しは春夏と秋冬の年に2回から
さらに早く仕向けられている。
下り坂を転がり落ちるりんごのように、止まることを知らず、欲望を欲する欲望がつくられる。
その変えられない運命の中で何ができるか
ファッションはこのままでいいのか
ファッションで僕は何ができるのか
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