ダダのきっかけ

こないだ、友達が働いている良いめのイタリアンに行きました。

高い飯を食う機会がすくねぇダダですから、メニューを見てもどんな味か想像できやんのです。

だからとりあえず面白いカタカナのメニューを頼んでみました。

ビスマルク

ハーブジェノベーゼ

パルミジャーノリゾット

もう何でもありやん。

そのうちムシコナーズとか言い出すんちゃうか。


言い出さんか


お久しぶりです。
noteを書くようになったのが1年半前でとても不定期ではありますがその時の言いたいことを書いてきました。読んでくれる友達には感謝しかありません。

先日、友達と何気なく「なんで俺たち服好きなんやろ?」みたいな話をしました。時間を埋める雑談のつもりでしたが案外深いところまで掘り返しちゃって。その時に思い出した服への考えや、今につながる価値観の形成について言語化できそうなのでふと文章にしてみます。



きっかけはトミーヒルフィガー

私が生まれてはじめて服について深く考えたきっかけがトミーヒルフィガーでした。

私は小学生までは親から買ってもらったしまむらの服とかをなんの意識もせずに着ていました。服に関してかっこいいとかダサいとかの感覚がまだなかったのでしょう。とりあえずストレッチの効くジーパンにアニメのキャラクターが描いてあるトレーナーなんかを着ていました。今思うと愛おしいくらいにダサかった〜笑
中学生ぐらいから自分で選ぶようにはなりました。が、好きな俳優やアーティストなどのファッションアイコンがいるわけでもなく、なんとなーく服を選んでいました。


ところが事件は高校入学後に起きました。周りのほとんどの男子がトミーヒルフィガーという謎のブランドの服を着ているのです。そして財布は親のお下がりのGUCCIやコーチの財布。GUCCIやコーチと言ってもブランド名が刻印されているだけで、物自体の良し悪しも見分けがつかなかったはず。さらに言えばそのブランドのどこに魅力を感じるなどもなかったでしょう。

「はぁ?」



私はその時、ブランドに群がる感性や品位に違和感、いや正直に言って嫌悪感を感じました。大衆に認知されていることや、少し高価であるといった前置きがなければお前らはろくに服も選べないのか!と軽蔑しました。

そして、さらに問題なのはそれらのブランドを着る人間が僕の周りの9割をしめていたことです。
俺が間違っているのか?とすごく悩みました。
その時の私は人とかぶる服が着たい気持ちが理解できませんでした。


私にとってファッションって

他人を否定するのは簡単ですが、ではその否定する理由はなんだろうと考えていました。“否定”では語弊がありますね。大衆的なブランドを着ることが善!という価値観を肯定できない理由が自分の中に必要だと考えていました。
そのときふとクローゼットを開けて自分の持っている服を並べたときに気づきました。


「変やなぁ」


めちゃくちゃ大きいファスナーの付いたジャンパーや床を擦るほど長い丈のコートが出てきました。
変な服が好きだったんです。周りと違う服が。
その背景を23歳の今の私が推測するに
唯一無二と孤独の中間に自分の居場所を見つけたかったんだろうなと思います。

きっと私は唯一無二でありたかったんです。
俺より足が速いやつと同じじゃなくて、俺より友だちが多いやつと同じじゃなくて、誰とも違う自分を服を通して見出そうとしていたんだと思います。
それは劣等感の裏返しでもあります。自分が抱えるコンプレックスを「だって俺は人と違うから!」と開き直ることで自尊心を守りたかったのかもしれません。例えるなら50m走のスタートの合図と同時に踊りたいんです。まっすぐに勝負して負けを思い知るくらいなら最初から違うゲームをやりたい。すごく惨めだけど、愛おしいくらい人間味がありますね。私って。


しかし私は孤独も怖かったんです。
周囲と違うことに一生懸命になることは孤独です。それも嫌なんです。寂しいから。だから人の倍、人に優しくしようって決めてるんです。一方的に手を貸したいし、感謝したいし、笑かしたいなぁって思ってます。

変わった見た目してるけどそれはそれでありかもね

って存在になりたいんです。今でも。


だからダダ

トミーを着る周りを見て芽生えた反抗心、反大衆的な価値観はパンクとは違うんです。どちらかと言うとアートの文脈、特にダダイズムなんです。

大衆的なものは善、という薄く広く流布する価値観に疑問を投げかける。普通というカテゴライズを嘲笑する。身の回りの当たり前に流されない。


そんな精神性が、私がダダという名前になった本当の理由です。

ウルトラマンのキャラクターと髪型が似てたのは偶然なんだよね。

ダダ

服から始まった自己との対話が今の僕を作ってるんです。もみあげが長いのもそういうことです。あからさまな異質を体の一部にすることで、私が思う“普通”から距離をおいているのです。



無関心から始まったファッション人生ですが
大衆性の否定をきっかけに「服はなんのために着るのだろう」と考えるようになり。
しかし行き過ぎた異質も力まかせで品がないなぁと感じ。今では普通と異質の間を揺れ動くことが僕にとってのファッションとなっています。

これからもそんなファッションを楽しみつつ人々に届けられるように精進していきますわな🍀

Thank you 🍀. Dada

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