連続恋愛怪奇小説『猿の手が落とされました』①
その夜の月は、クレーターが肉眼でも視認できるほど大きかった。真円を夜空に穿ち、冴え冴えとした青白い光を放っている。深更に至っても街は静謐な輝きに満ちていた。
美しく珍しい景色に多くの家庭はカーテンを開けて眠りについていた。しかしある一軒家の二階の一室は、厚手のカーテンがピッタリと閉じられていた。
照明もつけず、真っ暗なその部屋の中で、打鍵の音と捲し立てるような鼻息だけがやけに大きく聞こえる。
ゆうまはその部屋唯一の光源であるデスクトップパソコンのディスプレイに食い入り、忙しなくキーボードに指を滑らせる。
ディスプレイに表示されているのはネット掲示板であった。その中でも彼は「深夜だし洒落怖語ろうず」と題されたオカルトスレッドを覗いている。
「洒落怖」とは「死ぬほど洒落にならない怖い話」の略称だ。身の毛もよだつ実体験や伝聞、都市伝説、ニュース等を収集する目的のスレッドを発祥とし、今では創作怪談全般を対象としたジャンルとして扱われている。迫真の筆致と生々しい空気感が多くの人を引き寄せ、オカルトカテゴリでは確固とした地位を築いている。『くねくね』や『コトリバコ』、『八尺様』など多数の名作怪談がこれらのスレッドから生まれた。
彼はマウスのトラックボールを執拗にいじり、現在進行形で交流がなされているスレッドを流し見る。目新しい話は特にない。どこか既視感の拭えない怪談やリアリティにかける駄作ばかりだ。それでも彼はもうかれこれ四時間もオカルトカテゴリを熱心に渡り歩いている。
ゆうまはストーリーテラーではない。その代わり、語られる物語に批評をつけたり考察をしたりする。自分のしたレスが元で同調や反感が巻き起こる様はそのスレッド自体の面白さに関係なく、彼にとって愉快な見せ物だった。
しかし平素は陰気なニヤけヅラで掲示板を閲覧している彼だが、今日は眉根を寄せ、時たま唸り声を喉の奥で鳴らしていた。貧乏ゆすりで机の上のコーラが細かく波打つ。四時間を通して、自分のレスに思うように反応が返ってこなかったのだ。
彼はあたかも十二月の路上に薄着で放り出されたかの如く、学習椅子の上で膝を抱えて背中を丸めた。より一層打鍵に勤しみ、マウスを乱雑に扱う。いくつかのスレッドを行き来し、のべつまくなしレスをする。焦燥がクリックに、レスの文体に、息遣いに現れる。目尻のすぐ横を汗が一筋垂れた。
モルタルのような色の顔の中で裂けんばかりに見開かれた双眸がディスプレイの光で浮かび上がる。
ゆうまは大きく唸りながら、勢いよく足を踏み下ろした。部屋のみならず家全体に響くであろう大きな音がなった。何度も何度も、声にならない声をあげて無茶苦茶に地面を蹴り続ける。
どこかの拍子で、学習椅子のホイールが勢いよく転がった。ゆうまは間の抜けた声をあげて椅子ごと呆気なく横転した。床に広がるゴミ袋の海が波立つ。悪臭と埃がブワッと舞った。
彼は毛虫のようにもがいた。学習椅子がゴミ袋にはばまれ、下半身にまとわりつく。苛立たしげになんとか椅子をどかしたところで彼はパタリと動きを止めた。ゆうまはじっと這いつくばりながら唸り声をあげ始める。しかし今までの苛立ちからくる獣の如き唸り声ではない。彼は自分がゾンビにでもなった姿を想像しながら喉を震わせていた。
そのうち、唸り声は止んだ。今度は代わりに鼻を啜る音がささやかに聞こえた。カビ臭い床に熱い雫が散る。
どれだけ自分を卑しめてもみじめな現実と環境は変わらない。彼はゾンビなどではない。ただゾンビによく似て不衛生で、脳が足りず、埃と腐敗臭と夥しい数の虫の卵を孕んだ部屋で生きている人間というだけだ。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
彼の中でもう呆れるほど繰り返された疑問だ。いまだに答えはわからない。
夜風が吹いた。生ぬるくはあったが、彼の頬を伝うものよりかは遥かに冷たく心地よい感触だ。厚手のカーテンがたおやかに揺れ、カーテンレールのランナーは小さく囁きあった。
彼はむくりと起き上がり、ゴミの山をかき分けて窓の前にたつ。窓がわずかに開いているのか、そこから夜風が吹き込んでいる。
夕方頃に窓をピッタリ閉めて施錠もしたはずなのにと彼は疑問に思った。しかし自分ではやったと思い込んで実際はやっていなかったという体験はままある。ゆうまはさして重く考えず、今度はしっかりと閉めるためにサッシに手を伸ばした。
月光が手に落ちる。彼は動きを止めてそれに見入った。
青白い光は手の甲の上で滑らかに揺れる。垢にまみれた彼の手が陶器のように白く映り、動かすと控えめに煌めいて見えた。彼は驚嘆して思わず口角を上げた。
また、彼はこの月光に強い恐怖をも覚えた。あまりに美しすぎる。まるで人智を超えた魔力を帯びているかのようだ。
「窓の外にあるものは月ではない。それを見てはいけないし、考えることさえ禁忌だ」
ゆうまの本能がそう訴える。もしその禁を破れば、たちまち人生がひっくり返ることになると、彼はなぜか知っていた。
彼が気づいた時すでに、手にはサッシの鍵ではなくカーテンの端が握られていた。
カーテンが揺れる。寄せては返す波の如く、月光が手を濡らしていく。
冷たく、甘美で、厳かな光。
指先に力が込められていくのを感じる。胸騒ぎが高まり、冷や汗が額を伝う。
彼は目を瞑ろうとしたが、見えない力によってまぶたは頑なに降りなかった。
決められた動きをなぞるかのように上半身が勝手に動く。
「窓の外にあるものは月ではない。それを見てはいけないし、考えることさえ禁忌だ」
今にもカーテンは開け放たれる。
ゆうまは踵を返した。視界が暗くなり、一瞬にして現実に引き戻される。
足だけでも動かせられて助かったと、彼は息を弾ませながら安堵した。
これは悪い夢だ。一度眠って仕舞えば、朝日が全て塗りつぶすだろう。
彼はベッドに横たわろうと何気ない一歩を踏み出した。それと同時に窓が大きく鳴った。
突風だ。ドレープカーテンがふうわりと浮き上がる。部屋中があの光で明るくなった。
ゆうまは腰を抜かして尻餅をついた。
目の前のゴミ袋の上に人が倒れている。
ワイシャツにスラックスを履いた小柄な男性だ。ピンと背筋を伸ばして気をつけの姿勢をとり、青白い光の中で安らかに目を閉じている。
こちらに向けられた顔を見て、ゆうまはさらに戦慄いた。
その男はゆうまの高校時代の親友であった。
彼は十年前突如失踪して以来、杳として消息が知れなかった。それが今、ゆうまの目の前に、十年前と寸分変わらない容相で現れた。
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