連続恋愛怪奇小説『猿の手が落とされました』③
ゆうまの首筋に窓から光が射した。机に突っ伏していた彼は顔を上げ、疎ましげに窓の方を見る。若々しい葉をこんもりつけた桜の並木が陽光を受けてサラサラと輝いていた。花弁をすっかり落とした葉桜は夏の気配を揺曳している。
六限目は地理だった。授業開始早々にゆうまは居眠りを初め、今に至る。「地名の意味」と大きく書かれた文字だけが霞んだ目でも見えた。板書はまだ残っているが、写すのは億劫だ。ゆうまはあくびをして、もう一眠りしようと腕を組む。顔を前に向けたところで、彼は息を飲んだ。
シワひとつないワイシャツから伸びた華奢な首。肩幅は心もとない。緩くカーブを描いた髪の毛を触ろうと、つい手を伸ばしかけた。
圭が一つ前の席に座っている。
残された板書を熱心にノートに取る彼を、春の末の麗日が乳白色に映し出す。
「ゆうま〜!」
妙に間延びした声に呼びかけられ、後ろを振り向く。それと同時に彼の首に肩が組まれた。オレンジ色のニット帽を被ったアキラが至近距離で浮ついた笑みを見せる。
「放課後暇?」
「ああ、なんも無いけど」
「いつものメンツで古窪《こくぼ》いかねー?」
アキラは「古窪」という単語をことさら大きな声で強調し、周囲を伺った。何人かの女子生徒が嫌悪の表情を一瞬彼に向け、すぐに銘々別の方向へ目を逸らした。彼は得意げな微小を浮かべる。
「いいけど、女は誰が連れてくんの?」
「それは俺ちゃんに任せなって」
「アキラは胸しか見てねえからなぁ。この間みたいなブスはごめんだぞ」
「どうせヤってる時は顔なんてろくに見ないんだからいいだろ」
アキラは着崩した制服の隙間から香水を振りかけた。彼曰く、女を欲情させる香りだそうだ。ゆうまは鼻をつまみたい気持ちでいっぱいであったが、顔をしかめるだけで何とか止める。そしてそうしているのをバレないように、スクールバッグの中を覗き込んで下校準備のフリをした。
「そしたら先行ってるわー。校門で待ってる」
アキラは空のスクールバッグを肩にかけ、教室を後にする。その時丁度、メガネをかけた生徒が教室に入ってきた。抱えるほどのノートの山を運んでおり、出入り口に差しかかったアキラに気づくと道を譲った。彼の目に残酷な好奇心が宿る。アキラはスクールバッグをブンと振り、メガネをかけた生徒の体に打ち当てた。
ノートの山がグラグラ揺れる。メガネの生徒は立て直そうと体を捩り、果てにはノートを撒きながら盛大にすっ転んだ。アキラはその顛末を半ば無表情で眺めていた。そして踵を返し、西日の指す渡り廊下を軽やかに去っていった。
ゆうまは安堵のため息をついた。それと同時に、これから行く場所への嫌悪感でみぞおちの当たりが鈍く傷んだ。
「や、八百山《やおやま》くん」
遠慮がちなテノールの声にゆうまはサッと顔を上げる。八百山はゆうまの苗字だ。圭が背もたれに手を置いて、ゆうまを見つめていた。
声色とは裏腹に、圭の顔は興奮と期待とに赤らんでいた。猫のような目がひたとゆうまを捉え、慎ましい小鼻が膨らんでいる。
「ゆうまでいいよ」
「分かった。それじゃあゆうまくん、古窪に行くって本当?」
ゆうまは言い淀み、一瞬圭から目をそらす。
「本当、だけど」
「僕も一緒について行っていい?」
「ダメ! ダメだ」
思わず語気が荒くなる。圭は驚いた後に肩を落とした。
「そうだよね、ゆうまくんにはゆうまくんのコミュニティがあるもんね」
「いや、仲間はずれにしたいとかそういうんじゃないよ」
「じゃあ、なんでダメなの?」
「なんでって……」
ゆうまは逡巡した。
古窪は学校から二キロ程離れた山である。地元では危険な区域として指定され、鉄柵や立て看板が設けられている。その柵の一箇所空いた穴からアキラ達は侵入し、度々悪さをするのだ。
古窪への同行を拒む本当の理由は、その悪さにあった。圭のような大人しい人にとってあまりにもショッキングな内容だろう。
「俺らが行くのは古窪の奥の廃墟だ。そこまでの道のりはキツいし、廃墟の中もよじ登ったり飛び越えたりしなきゃいけない。圭みたいに運動があまり得意じゃない子にはきっとしんどいよ」
ゆうまの言葉は嘘でもないが本当の理由でもない。
「しんどくてもいいから行きたい!」
圭はゆうまの机に手をつき、身を乗り出した。彼は少しだけ仰け反りながらこう尋ねた。
「なんでそんなに古窪に行きたがってるんだ?」
痛いところを突かれたとでも言いたげに圭の眉尻が下がる。そして辺りを控えめに伺いつつ、仰け反るゆうまに耳打ちを誘った。
「ゆうまくん、オカルトは好き?」
吐息混じりのささめきが猫じゃらしのように柔らかくゆうまの耳をくすぐった。ゆうまは「まあ、テレビで見るくらいは」と同じく小声で返した。
「古窪は死体の山なんだ。それもただの死体じゃない。未練や苦悶を想像しきれないくらい抱えた死体達だ。そんな場所にはきっと——出るよね」
「出るって、なにが?」
圭は無邪気に笑う。花が咲くように静かで、可憐な笑みだった。
「僕は幽霊がみたい」
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