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第七章の53◎一夜城と水攻め

 籠城した城への水攻めは、戦国時代において黒田官兵衛の得意戦術でした。
黒田は、毛利氏の援軍が駆けつける前に、何としても備中高松城を落とさねばならなりませんでした。
 秀吉は、参謀の黒田官兵衛を交えて軍議を重ねていました。そのとき、黒田官兵衛の進言が、膠着した戦局に変化をもたらしたのでした。
「水によって苦しめられ城が落ちないのだから、反対に水によって攻めたらよいのではないか―」
この策を受け入れた秀吉は、直ちに水攻めに向けた築堤に着手したのでした。
城の近くを流れる、足守川の東・蛙ヶ鼻から全長約3km、高さ約7mの堤防を築き、そこに足守川の水を引き込むことで、備中高松城を水の中に取り残された浮城にしてしまったのでした。
この築堤工事は、わずか12日間で完成したと伝えられています。
 そして、援軍に駆け付けた毛利氏側の武将、小早川隆景、吉川元春らは、孤立する備中高松城の状況を前に為す術もなかったのです。
しかしながら、孤立した備中高松城の城兵を見殺しにすることはできませんでした。
その結果、毛利氏方は、ついに秀吉に対して講和を申し入れたのでした。
城兵の安全と、中国五か国の譲渡を講和の条件として申し入れるものの、清水宗治の切腹にこだわった秀吉はこれを拒否しました。交渉はいったん物別れに終わりましたが、最後には清水宗治の切腹で決着をみたのでした。
一方、豊臣秀吉の一夜城戦略、石垣山城は小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、一気に木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたとされます。突然の出来事に驚き、北条軍の士気は奈落へと突き落とされてしまったのでした。実際に石垣山城跡を訪ねてみると、目の前に現れる石垣の迫力には、圧倒されてしまいます。小田原城を見下ろす絶好のロケーションに建てられたことが確認出来ます。
 そして、小田原城に乗り込んだ黒田官兵衛は、北条氏政・北条氏直と面会し、「北条家の未来は、烈火をもって鍋の中の魚を煮るがごとくなり。豊臣秀吉と和睦し、伊豆(静岡県)・相模(神奈川県)・武蔵(埼玉県)の3国を領有して、先祖の霊祭を存続するべきこそ、北条家百年の大計である」と説得したのでした。
最後には、小田原城も知将、黒田官兵衛の戦術で直接戦をする事無く、水攻め、兵糧攻め、最後には説得され城を明け渡すことが出来たのでした。
まさに戦は「戦わずして勝つ」が基本であることを我々日本人に教えてくれた戦いでした。
 「戦わずして勝つ」事の最大の利点は、双方が納得し多くの命を救う事で、その時点で無駄な遺恨を残さずに、戦争を終結する事が出来る事なのです。
 さもなければ、その後に起こる復讐劇がさらなる戦争を呼び、終わりなき泥沼の戦いに突き進んでしまうからなのです。
 日本人には、共存共栄の思想が根底にあるから、このような方法で問題を解決する事が出来るのです。
負ける方の潔さ、また一族の命を助ける温情が、このような仕組みを成立させる根拠となっている事を決して忘れてはならないのです。


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