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義憤について

 いまこうして感じている模糊とした感情、あえて名付けるなら「悔しさ」のようなものを、いったいどう書いたらいいのかがわからない。
 ぼくはできることも知っていることも少ない。でもなんというか、最低限の「義」はわかる。もちろん正しい「義」が、必ずしも道の中心にあるとは思っていない。むしろ正しい「義」は往々にして不遇なことが多いように思う。
 そんなもんだと高を括る気持ちがないわけでもない。しかし「義」はいつもどこかにあって、こちらを見ている。たとえ隅に追いやられたとしても、その隅からこっちをじっと見つめている。ふんと高を括っているぼくを見ている。
 その視線を感じては、むずむずとする。無視しようとしても、どうしても気になる。ついにそのむずむずに折れて、もう一度思い直す。自分に問いかける。
 それでいいのか。ほんとうにそれでいいのか。

 そうやってずっと「義」とつきあってきた。ひとりひとりのなかに「義」はあって、それぞれのつきあいかたがあるだろう。かたちもなかみもちがうかもしれない。でも共通するところもある。
 「義」はときにわずらわしいけれど、すごく大切なものだ。不埒なぼくでも、あまりにも「義」がねじ曲げられ、侮蔑され、蔑まれているとしたら、とても悔しく思うし、怒りの感情も湧いてくる。
 「義」ばかりが大きい顔をしている社会は、かたくるしくていけない。しかし、「義」が踏みつけられ、嘲笑されている社会は、もっといけない。

 菅野完さんは自身の対談集「日本会議をめぐる四つの対話」の冒頭でこう書いている。
「いつの頃からか我々の社会は『嗤う』ことを覚えた。田畑の泥や工作機械の油にまみれて働く人々を嗤い、日々の生活と我が子の安寧のため汲々として働く市井の人々を嗤い、田園や陋巷に身を置き都の華やぎに加わろうとしない人々を嗤うようになった。(中略)我々は嗤う。徹底的に嗤う。市民生活の向上を希求する声を嗤い、国策や企業活動によって被害にあった人々の原状回復を求める声を嗤い、弱者や被差別者の権利擁護を叫ぶ声を嗤うようになった。」
「義」そのものを嗤い、「義」にそっていくひとたちを嘲笑する。そんなシニカルな嗤い、にやけた薄ら笑いが、いつの間にかぼくたちを取り囲んでいる。

 文科省前事務次官の前川喜平さんは、後輩たちに伝えたいことばとして「面従腹背」をあげている。このことば自体はちょっと聞くと「いい顔をして従うふりをして、裏で舌をだせ」というふうにとらえられがちだが、前川さんがいいたいのはそうではなく、自分自身を見失うなということ。自分のなかの「義」を大切に持ち続けなさいといっているのだ。
 前川喜平さんのことを知るにつけ、彼は「義」のひとなのだとつくづく思う。ただのかたぶつ、教条主義者ではなく、腹の奥にしっかりと「義」を持ちながら、実に長きにわたって行政官としての仕事を柔軟に続けてきた。
 おそらく「面従」しなければならないことばかりだったかもしれない。役人としての悲哀に、あるいは理不尽さに負けそうになることも多かったかもしれない。でも前川さんは「義」を持ち続けた。

 前川さんが念願し、尽力していた公立夜間中学校の設立のめどがたった昨年秋、超党派の議員とともに川口市を訪れて、関係者をまえにして話をしている。
 そのなかで冗談めかして、来年はもう事務次官はやっていませんからと言っている。ちょうどそのころ、前川さんは内閣府からさまざまな圧力を受けていた。内閣府審議官、参与、情報官から直接、そして総理自身とも会っていたとする記録も残っている。
 そこで、前川さんは素直に首をたてに振らなかったのだろう。岩盤規制の旗手としてなどではなく、「それ」を認可するための合理的な理由付けとファクトを求めたにちがいない。
 人事権を一手に握っている内閣官房のあせりを肌で感じた前川さんは、川口市の夜間中学校の関係者をまえに、もはや事務次官としてながくないことを、思わず吐露してしまったのだろう。そのすぐあとに、文科省のいわゆる「天下り問題」がやおらあらわれ、前川さんは引責辞任することになる。
 前川さんは改革推進の抵抗勢力などでも、岩盤規制の担い手でもない。「義」にのっとったものであれば、いくらでも協力し、仕事をしただろう。「面従腹背」を銘としながらも、そこには到底容認できないだけの「義」への醜い捻じ曲げ、蔑みがあったからこそ、その身を硬直させたのではないだろうか。

 教育を必要としているひとはたくさんいる。必要としながらも教育を受けられなかったひとたち。貧困ゆえに進学がかなわないひとたち。10万人を超える不登校のこどもたち。外国人だから、違法移民だから学校にいけないこどもたち。過酷な労働環境や精神疾患を抱え込む教員たちのこと。
 おそらくそういった教育の現状をひろく知っているがゆえに、内閣府をのぞいた関係省庁からの必要性が求められていない、いち私立大学の獣医学部に、大量の税金が助成されることに耐えられなかったのだろうと思う。
 前川さんはあるインタビューのなかでこういっている。
「いったん大学が作られれば、毎年、億の単位の私学助成を出していくことになります。国民から預かっている税金をそこの大学につぎ込むことになるわけですね。ずっと何年も何年も、その大学が存続するかぎり、20年でも30年でも50年でも。税金をそこにつぎ込みつづけるわけですから、やはり国民から預かっている税金を正当に使うという意味でも、安易な設置認可はできないですね。」

 ぼくたちがいまこうして生きている社会は、「義」を嗤うことに慣れてしまったのだろうか。義憤を感じて立ち上がることすらできないほどに、腰抜けになりさがってしまったのだろうか。立ち上がらないまでも、せめて「義」に正直たろうとするものへ後押しを表明することくらいはできるのではないだろうか。それすらもかなわないのか。
 であるなら、ぼくはそのことが、なによりも悔しい。

 

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