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《欠けた自分》に気づくこと 『竜とそばかすの姫』/細田守
細田守監督の作品の「夏感」に触れたくて、「竜とそばかすの姫」を鑑賞してきました。
ストーリー、キャラクター、音楽、映像、そしてさわやかな田舎の夏感、全てに大満足の作品でした。
今回の中心となる舞台は、高知県です。
【INTO THE MOVIE 〜『竜とそばかすの姫』の舞台、高知をめぐる〜】#細田守 監督最新作『#竜とそばかすの姫』の舞台は #高知県。本作で描かれる美しい高知の景色をめぐった記事をSWITCHのWEBで特別公開します!@naturallykochi @studio_chizu https://t.co/KEjJgSPJrO pic.twitter.com/lWrD43PsCp
— SWITCH (@switch_pub) July 22, 2021
アニメーションと、リアルに存在する構築物の融合がとても好きです。
(劇場版名探偵コナンのエンディングの実写シーンも、とても好みです。)
細田作品では『サマーウォーズ』の長野県や『おおかみこどもの雨と雪』の富山県など、これまで日本の実在の場所が舞台となってきた。最新作『竜とそばかすの姫』の舞台は高知県。本作で描かれる景色をめぐった。
細田監督作品に特徴的である、田舎の小さなコミュニティからなる強固な人間関係は、今の人々が忘れてしまった「何か」を思い出させてくれるようです。
細田監督の提示する原風景が、多くの人々に「何か」を思い出させること。そして、限りなく同様な「何か」をシェアさせること。
この事実があるのだとしたら、とても素敵な魔法のようです。
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本作品の《ボディシェアリング技術》をみて、細田監督の未来への視点を感じ取れることもできました。
それは、希望/絶望の両方を持つ視点かもしれません。
未来へ加速するテクノロジーを享受するという意味での希望と、テクノロジーによるさまざまな副作用という意味での絶望、その2つの視点です。
それらは、複雑なバランス下で均衡を保つよう社会が構築されていきます。
ゆえに、テクノロジーについての《完璧な状況》が存在しえるとは、到底思えません。
限界集落の村/アクセスブルな仮想現実を、過去的視点/未来的視点の対比で描くことで、テクノロジーのもたらすものを、1つの主観で描き出しつつ、そのバランス感覚を「なんとなく」感じ取ってもらいたい。
このような意図が、細田守監督にあるように思えました。
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また、ボディシェアリングの様な、多感覚をVRに映し出すテクノロジーについては、以下の著書に詳しく書かれており、おすすめです。
これを読んでからだと、「竜とそばかすの姫」を面白い視点から鑑賞できると思います。
何かが欠けた存在=「存在」
鑑賞中、真っ先に感じ取れたのは、「欠けた存在」の存在でした。
その中に、主人公が使用していた「コップ」があります。幼少期から、大切に使用していたものでした。
それは、飲み口が欠け、ひび割れているような「欠けたコップ」なのです。
また、主人公の家にいる、「犬」の存在も、「コップ」と同様です。右足が欠損した状態で、立つにもご飯を食べるにも不安定な状態です。
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主人公を取り巻く家族や友人、心象、仮想現実〈U〉に存在するキャラクターなど(竜、モブなど)についても、《何かを欠いた存在》として存在しています。
自分を偽りながら仮想現実を生きる年配の女性は、〈U〉での自動生成アバター(AS)が「赤ん坊」でした。
これは、非常に興味深い内容です。視聴する側の自省を生むシーンだと思うからです。
赤ん坊がわがままなのは、自分の実存に自信がないからです。他人に守ってもらえなければ生きていけないのです。
偽りの自分に頼りながらわがままを突き通す「年配の女性」は、まさに赤ん坊であり、実存が不安定な大人そのものです。
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人間は皆、何かを欠いていると思います。
それは、《欠けているという事実》や《自己肯定ができないという意味での欠け》など、意識的/無意識的なものがあると思います。
《欠けた自己》に注視すること、また、明確に問題意識を持つことは、容易な作業ではありません。体力を使うからです。
人間のどこか《欠けた部分》が、〈U〉の自動生成アバターに現れているように思えてなりません。
ただ、遺伝子情報にまで還元された結果が、アバターそのものに全て表されているのだとしたら、仮想現実は後戻りの不可能なディストピアにも映ります。
個人的に、〈U〉という世界が、どこまでアバターの可塑性を担保としているのか、気になるところではあります。
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その、もう1人の自分である〈AS〉とは、新しい自分なのでしょうか。(そう思いたくない、に1票。)また、それは、現実世界の自分を見下す/敬う存在となりうるのでしょうか。
仮想現実のアイデンティティと、現実のアイデンティティを乖離させて、明確な上下関係をつくるのは、本末転倒のように思えます。
ですので、仮想現実/現実の両面に存在するアイデンティティは、ありとあらゆる面で全くのフラットになるよう生成してほしい…と、もし〈U〉が存在していて自分の使うアバターがああだったら、こうだったらと考えていたら、そう思わざわるをえません。
アイデンティティの権利をぶっ壊す
終盤に主人公が、アバターをアンベール(アバターではなく仮想現実側ではない自己を明かすこと)するシーンが、映画を総括している、と感じました。
さまざまな意味で《欠けた自己》への、見つめ直しであり、アイデンティティの権利構造を根底からぶっ壊すような、いわば革命のような行為でした。
それは、「自己同一性は自己から発するものではなく、権利的に強力な他者から問われ、意味付けされるもの」だと思うからです。
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「あなたは誰か?」と、問う側/問われる側は、いつでも《問う側》に権力が偏重しています。
偏重の仕方はさまざまです。
《問う側》とは、実際に権力を有するもの、またはマジョリティの何かに属する者など、構造的に強固な何かに存在し、統制する者です。
主人公は、その構造を根底からぶっ壊してしまいました。
さまざまな人からの支援があり、成し遂げられたことではありますが、その行為(アバターのアンベール)を決定したのは自分自身そのものです。
その決定をした自己が現れた瞬間、乖離しかけた自己、ようするに《欠けた自己》と対峙することとなるのだろう、と思います。
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人類の実在に関した普遍的な問いである、「私は誰か?」「人間とは何か?」とは、自己の他者化から始まります。
「進撃の巨人」についてまとめたnoteにも記載しましたが、自己を不明瞭にさせる《壁》があるからこそ、そこから上記のような《問い》を思案する精神が生まれてくるのだ、と思います。
〈U〉の自動生成アバターは、何も残酷な自己投影なのではなく、自己の他者化そのものであるということ。
その他者化によって、自己の探究に付随した人間的知恵が深まり、かつ私自身を取り巻く世界の意味付けに繋がっていくのではないか、と思います。
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終盤のアンベールは、希望的な光に包まれた場面でした。
しかし結局のところ、その刹那を連続性のあるものにしていけるかどうかが、肝腎です。
終盤のアンベールを、福音とするかどうかは、まさに自分の主観次第です。
そこから読み取れる意図は、常に《欠けた自分》を意識しながら、生きることを全うするということ。僕も、そのように、心底思います。
さまざまな感想が錯綜する、素敵な作品です。