羊羹とテクノの共通点
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」はかっこいい。
一時期、無印良品のデザインに携わっていた原研哉さんの本をたくさん読んでいた。原さんは常々、日本の美意識として「empty」があると言っている。西洋の「simple」と対比される考え方で、翻訳すると「空っぽ」「余白」「空間」「何もない」等で、デザインしすぎないデザイン。無印良品はそうしたデザインしすぎないデザインのものが多い。
日本は昔から、このように、人間の手を加えすぎないで、空白を重んじるところがあると感じる。谷崎潤一郎の陰翳礼讃もまさにこうした考えを述べているとおもう。陰翳礼讃では、視覚的な光と影について述べている。大好きな羊羹について書かれているところを少し長いが、抜粋する。
”私は、吸い物椀を前にして、腕が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三味線に惹き入れられるのを覚える。(中略)日本の料理は食うものでなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、闇にまたゝく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。”
色を見て音を感じる、音を聞いて、特定の情景を浮かべる。五感を横断できるとても素敵な文章。日本家屋がもっている薄暗さの中にある美。器と、暗い色の羊羹のコントラスト。日本の美意識が奥ゆかしく伝わってくる。まさにこの文章は三味線の音が鳴っている感じ。
羊羹も空白そのもの。モノリスのように、無地の大きなブロック。塊。
タイトルにある通り、ここからが本題。羊羹とテクノの共通点。それはどちらも無の美意識がある、ということ。テクノも一定のリズムが繰り返される。歌詞がなく、電子音で紡がれた音だから、具体的な意味がそこにはない。明確な音の意味やイメージは、聞き手の感情にゆだねられる。歌詞がないから、聞き手は自由にその音楽に対して感情を抱くことができる。テクノはemptyそのものだと思う。
日本は欧米への憧れが強い。(なんとなくクリスタル。)
欧米の曲を真似して、欧米のライフスタイルを真似したお店をつくり、洋服を着て、欧米のつくったSNSに投稿する。。。。。
日本には奥ゆかしくて、幽玄な美意識が眠っている。テクノにはそんな日本の美意識と通じる空っぽな感じ、余白を大切にしている感じがある。欧米のものを真似していない、日本の美意識がある。テクノをみんなもっと聞いていこうよ!(三味線もいいよね。)