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【雑記】今日死ぬかもしれない人間
100日後に死ぬワニが67日目(たぶん今日で68日目)を終えた。タイトルから額面通り受け取るならば、その2/3の日数が過ぎたわけだ。
と言うだけでまあまあ通じるだろうな。と思えるほど、100日後に死ぬワニが流行っている。
フォローしてないのに経過した日数がだいたいわかるくらいリツイートされてくる。
100日後に死ぬワニは、きくちゆうき氏が多分ツイッターとかで連載している、その名の通りワニが主人公の4コマ連作漫画だ。
微妙にうだつの上がらないワニが、周囲の動物関係の変化とかに伴って、恋愛したりバイト辞めたり始めたりする。
これはワニだけでなく、さまざまな死についての話だ。
ワニは自分が「100日後に死ぬワニ」という名札を下げていることを知らない。
だからちょっといい感じだな。好きだな。みたいな相手ができても、一念発起する理由もないし、自然体だ。
俺たちと同じように、1日1日を無為に過ごしていく。
……いや、このワニは頑張ってる。俺よりずっと。
それでも、うまくいかない日はある。
事故や、天気や、誤解。
なんだか気持ちが乗らなかったり。
やろうとしても周りの予定と合わなかったり。
ワニにはあと30日しかないのに。
それを見て読者が言う。
「何をモタモタしてるんだ! あと30日しかないのに!」
一方で、ワニが勇気を出して行動するとこうも言う、
「あと30日しかないのに! 残される人の気持ちを考えて!」
みんながワニのやることなすことに注目する。
ワニの恋愛に、ワニの友情に、ワニの後悔に。
そして100日目を、つまりワニの死を、待ちわびる。
自分は今日死ぬかもしれないのに。
このワニの死に、悲劇性とかドラマ性を見出すのは難しいだろう。
どうやってワニの死を嘆き、感動してやろうかと身構えていた人ですら自覚してしまう。
ワニには100日という時間があったけど、自分にはそれがないということを。
無自覚なワニの死を結末として与えることで、読者に自分の死を自覚させる構造は、勝手な妄想ではなく意図的な物だと思う。
それは多くの読者が早い段階で感じているはずだ。
死んだかもしれないネズミ、完結しないだろう漫画。
100日後に死ぬワニは、今日死ぬかもしれない人間の話だ。
俺たちは「今日死ぬかもしれない人間」の名札をつけて生活している。
俺もそうだし、君もそうだ。実は作者の方だってそうだ。
みんながつけてるから、誰にも見向きもされないだけだ。
俺たちは無自覚で能天気なワニをあざ笑っているように見せかけて、
本当は彼らから笑われているのだ。
俺たちが今やっている、ワニの死になんやかんやケチをつける準備は、
まさしく自分自身の死にケチをつける準備に他ならないのだ!
クッソ! ワニめ!
そうした自覚を持って、俺はツイッターなどという無駄な時間を過ごすのをやめ、
職場や恋愛などの人間関係に真剣に向き合うことを誓うのだった……。
なんてなるかバカ。
たしかに日々を後悔なく生きることは難しい。
だが、人間関係にしこりを残したり、女の子とつきあえなかったり、そのとき無職だったりしただけで、
他人に落胆されたりしたら腹が立つ。
自分が急死したとき、秘密の棺おけリストを読み上げられて、
「故人は3人の女と同時にヤるのが夢でした……それを叶えられなくて無念だったと思います」なんて言われてみろ。
絶対に怒り狂って反論する。
「ムキーッ! お前になにがわかる!」
ワニだってきっとそうだ。
後悔を抱えて死ぬのはいい。それはもうしょうがない。けど、図星をつかれて熱くなりたくはない。
後悔しながら「俺は後悔なんてしてないもんね! プイッ!」と言って死にたい。
2007年に急逝された作家・打海文三氏の短編集、『一九七二年のレイニー・ラウ』作中人物の発言を要約するところ、
「自分の人生の貧しさへの自覚があれば、他人の人生に関心を寄せられる。女性体験の貧しさが、出逢えたかもしれない女性を妄想させる」
それをはっきりと誤読し、俺、つまりワニは、俺の死にケチをつける読者、つまり俺にこう反論する。
たしかに俺は食いたいものを食えずじまいのまま逝くのかもしれない。
だが、俺が食えなかったものは全部、酸っぱいぶどうなのだ。
俺は最高に美味い果実を想像して死ぬのだから、俺の方が幸福なのだ。
残念だったな、今日死ぬかもしれない人間どもよ。
死まであと33日