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【小説】怪奇人間シリーズ うんこ人間
自意識を排泄してしまった。たぶん意味が理解できないと思う。
だけど僕はこの眼で見た。
いや、正確にはもう『眼』は無かったから、見たとは言えないのかもしれない。
とにかく僕は認識した。
それはそれはでかいうんこだった。
その日、僕はカレーを食べ過ぎ、猛烈な便意を催して公衆トイレに駆け込んだ。23年間の人生で、これほど大量の排泄をしたことはなかった。
僕は男で、出産の経験は後にも先にもないけど、たぶんそれに似てた。あまりの巨体さに穴が裂けそうになりながら(僕はときおりウォシュレットをあて、短く呼吸をおいて、いきんだ)、1時間半の激闘の末『彼』は飛びだした。
『僕』はすぐさま便器を覗き込み、この大仕事の出来栄えを確かめようとした。あわよくば写真に収めようと、胸ポケットの携帯電話を探った。
だけどそれは果たせなかった。
『僕』が見たのは、――実際に見たのは初めてだったから、気づくのに時間がかかったけれど。――僕自身の汚れた尻の穴だった。
『僕』は自分がどこにいるのか分かった。そこは便器の中だった。
半ば身を水につけるかたちで、僕は僕の尻を見上げた。
率直に言って、自分の尻の穴をまじまじと眺めるべきではない。見慣れない自身の肉体の一部というのは、とてつもなくグロテスクだ。
まして排便直後とあっては。
僕が、『僕の肉体』が立ち上がった。
『僕』は混乱していた。混乱していたけど、思った。
「おかしいぞ」
「『僕の意識』はここにあるのに、どうして身体だけ動くって言うんだ」
それじゃあ、まるでゾンビーだ。
もちろん声は出ない。出ていないけど、僕の声で返事があった。
「『意識』がなくても『肉体』はきちんと動くんだね」
あまりのできごとに、僕は茫然として、うわごとのように疑問を漏らした。
「なんで……なんで、僕がうんこに?」
「つまり、君が――『僕の意識』が、肉体にとって不要なものになったってことじゃないかな」
わずかに首をかしげながら、こともなげに『彼』が言った。
「君はよく食べすぎるし、煙草も酒もやるし、寝不足だ。おまけに痔の兆候もある。肉体を完璧に管理できてるとは言い難い」
「そんな……」
「実際、脳と神経系の一部が君の機能を代替して、こうして肉体は問題なく動く。……本当は残念だ。意識を捨てることにはきっとリスクもある」
『彼』はちっとも残念ではなさそうに言った。
一方、僕は混乱したまま、必死にこの状況を打開する策を考えていた。
「あのさ……『君』が――つまり僕の肉体がだけど……『僕』をもう一度その……食べたらさ」
僕は悩み、そして1つの仮説を提案した。
異常な提案だったが、同じく異常なこの状況においては、一縷の望みを託すに値する考えに思えた。
「すべてが元どおりになるということはないかな」
「試したことがないからわからないけれど……」
僕の提案は、まったくもって妥当な『彼』の意見によって、即座に却下される。
「例えば『君』が『僕』なら、自分で出したものを食べたいと思うかな」
思うわけがない。
僕はカレーが好物だ。
彼はウォシュレット・シャワーを入念にあて、そのあとペーパーで丁寧に拭きとった。
『彼』の肉体にこびりついたわずかな『僕たち』すらも洗い落とされ、水面にぷかりと浮かんだ。
『彼――いまや僕』は、かつての僕が決してすることはなかっただろう獰猛な笑みを浮かべて、こう告げた。
「もういいだろう? そろそろ、流すよ」
それを聞いて、水面に浮かぶうんこは慌てた。
慌てて、かつて自分だったものに懇願した。
「待ってくれ、頼む。肉体に戻れないなら、せめて、せめて流さないで、出て行ってくれないか」
「……無意味な提案に思えるけど、他ならぬ『僕』の頼みだ。聞こうじゃないか」
そう言って、手をかけていた洗浄レバーから手を離す。
残された僕を見る彼の眼には、何の感情も浮かんでいない。
「それじゃあ、もう行くから」
彼はズボンを上げて、ベルトを締めた。
僕という意識があったときよりもはるかにスムーズな、洗練された動きだった。
「さようなら、『僕』」
ドアがばたりと閉ざされ、僕は一人取り残される。
次の誰かがドアを開けるまでのわずかな間、僕はどうしてこうなったのか答えを出そうとしていた。
便器にこびりついていられる時間も、そう長くはない。
僕は水道管の中でばらばらになり、摩耗し、こうして思考することもできなくなる。
残された時間は短い。
僕は赤ん坊のように泣いて、誰かに助けてもらいたいと思ったが、僕の声も涙も、もう僕のものではないのだった。
(了)