コンビチュニーが壊すオペラ
(※これは2011年に書いた記事を再掲したものです)
今回はオペラ演出家であるコンビチュニーという人について少し書きたいと思います。
一般的なオペラのイメージというのはどんなものでしょうか。
ヨーロッパの街の大通りに一際豪華なオペラハウスが建っていて、
着飾った人々がリムジンで乗り付け、赤い絨毯が敷き詰められた客席。まっ赤なオペラカーテン。
そして幕が開くと、そこには豪華絢爛な、日常を遠く離れた夢のような世界が広がっている。
こんなイメージではないでしょうか。。。
コンヴィチュニーという人は、
この夢のような世界を叩き壊し、オペラからオペラ的な要素を徹底的に排除しようとする人、であります。
歌手からはオペラ歌手の例えばデコラティブで大げさな(それは発声にも繋がるのだけれど)動きをもぎ取り、
舞台からは美しい装飾を排除し、
観客と(夢の世界であるはずの)舞台との境界の象徴であるオペラカーテンすら取り去ってしまいます。
では何故そんなことをするのか?
それは
観客に観客であることを許さないため、です。
コンヴィチュニーは、「オペラという芸術」に対して、ヒリヒリとした危機感を感じています。
それは「オペラはもはや黄昏の芸術。沈みゆく太陽のような退廃の芸術である」という危機感です。
「私たちの社会における劇場の役割は、ますます小さくなっていきます。劇場はもはや必要とされていないし、望まれてもいないのです。人口全体からすれば、ごくわずかの人間が劇場やオペラハウスに出かけるにすぎません。そしてそのうち、作品の本質に興味がある人間などというのは、もしかしたらたかだか三分の一しかいないかもしれないのです。」
「私たちの文化は、終わりの段階に来ていると思うのです。死はもうずっと前から始まっていました。そして私たちはエジプトやメソポタミアと同様に、没落していくのです。」
(「コンヴィチュニー、オペラを超えるオペラ」より)
では、この沈みゆく船をどうやったら再生させることができるのか。
それは「オペラを壊す」ことです。
そして観客を揺り動かし目覚めさせることです。
美食的で享楽的なオペラを解体して、
「舞台と観客席がいっさいの<魔法めいたもの>から洗い清められ、そこに<催眠術の場>が生じないこと」(ブレヒト)
を実現する。
それがコンヴィチュニーが自分の使命として、自身の演出の中で行おうとしている事なのです。
さて、僕は先ほど「観客が観客であることを許さない」と書きました。
それはどういうことか。
オペラというのは特別な世界を客席という「火の粉の振りかからない場所から」楽しむもの、でした。
しかしコンヴィチュニーはそれを許しません。
「舞台で起こっていることは、あなたの隣にある現実で、あなたもその世界に含まれているのだ」という刃を突き付けます。
例えば「サロメ」の世界で描かれる狂気。
その狂気はあなたの中にはないのだろうか。
あなたの生きている社会には、この狂気の世界はないのだろうか??
そういうことを目の前に突き付けます。
コンヴィチュニーの舞台では役者が客席に降りてきたりします。
休憩時間に客席を役者が歩いていたりもする。
そしてオペラカーテンは存在しない。。
劇場に入った瞬間に、観客は観客ではなく、これからの舞台の住人として存在することになります。
ウィーン国立歌劇場で行われた「ドン・カルロス」では、上演前にこんな紙が客に配られました。
「異端者処刑の場面は舞台、観客席以外にホワイエ(ロビー)も含みます。」
そして休憩中にはテレビリポーター風の女性が
「今日、皆様の為に、王様一行がここにいらっしゃいます。後5分で到着されます」
とマイクを片手に叫ぶのです。
これは、「あなたもこの世界の一部にいるのです」という仕掛けです。
観客は「観客という安全な立ち位置」を剥奪されます。
安穏の場所から、舞台という激動の中に連れて行かれ、一気に心は裸にされ、緊張状態に陥ります。
観客の能動的な舞台への参加。(肉体的にも精神的にも)
舞台での時間を観客一人一人も同時に生きること。
それが「いわゆるオペラの解体」を試みるコンヴィチュニー演出の、大きなテーマなのです。
さて、コンヴィチュニーを語る上でかかせない、とある人物がいます。
それは、
アルベルト・ブレヒト、という人です。
お、聞いたことある!と思った方は演劇通です
彼はドイツの劇作家であり演出家であり、20世紀の演劇界に革命を起こした人であります。
コンヴィチュニーはこの人に大きな影響を受けておりまして、、、
まぁこの人の演劇論を簡単に言うとですねぇ、
演劇とは観客がお尻をぼりぼり掻きながら大口開けて見るような娯楽ではなく、はたまた「主人公が可哀想だわ」と言って涙を流すものでもなく、演劇を見ることによって社会の構造や自分の生きている現実と向き合い、その世界を変える可能性を考えるような、見る者の何かを呼び覚ますためにあるものである。
というものなのですねぇ。
したがって彼の劇は極めて分かりにくく、また不親切であります。
だってその方が人間って考えるでしょ?
今のはどういう意味があったんだろう!
今のシーンにはどんなメッセージがあったんだろう、って。
観客を舞台上で演じられている話の筋に感情移入させず、登場人物の気持ちを追体験させることもしない。
逆に極めて冷静に醒めた感覚で舞台を見つめさせる。
もっと言えば観客を啓蒙し、目を開かせ、頭を使わせる事で観客を劇に参加させる。
演劇界においてそういう世界観を構築した人であります。
うーん、どっかで聞いた事がありますねぇ。。
そう、これらはコンヴィチュニーの精神性と大きくシンクロします。
コンヴィチュニーはブレヒトの系統を受け継ぐ人であり、ブレヒトが演劇界でした事をオペラ界で成そうとしている人なのかもしれません。
これは共演者の田村由貴絵さん(パージェ役)に聞いたのですが、コンヴィチュニーはブレヒトの創ったベルリーナー・アンサンブルの演出助手をを10年くらいやっていたそうですね。
その10年の間に彼の体の中にブレヒトの哲学が染み込んでいった事は容易に想像がつきます。
*****
ここで少しわき道にそれますが、ちょっとだけ20世紀における芸術界全体の流れを見てみたいと思います。
20世紀の芸術にはそれまでの時代にはなかった、大きな特徴があります。
それは20世紀初頭から中期にかけて、音楽や絵画や文学は、それまで結びつかなかった様々な主題との結びつきを持った、ということです。
例えばオペラでいえば、それまでの19世紀の時代はロマン派と呼ばれた時代でありまして、皆さんも良くご存じの、「ラ・ボエーム」やら「カルメン」やら「トスカ」やら、とにかく主題は「男女の恋愛」だった訳であります。
もちろんオペラの背景には社会の体制とか時代というものがあったにしても、それらはオペラの枠組みやエッセンスにはなっても主題にはなりえなかった。
主人公はいつも人間であり、内容といえば、
「好きよー」「私もよー」「でも病気で死ぬわー」とか「嫌いよー」「裏切ったな、殺すー」「あら~~」みたいな、、
そういう簡単なものだったわけです。
(その分声に重きが置かれていたという事でもあり、それはそれでいいのですが…)
それが20世紀にはいると音楽は人間や恋愛以外のものと結び付き、新しい素材がオペラのテーマになっていきました。
音楽はたとえば「戦争」と、たとえば「社会」と、たとえば「自己の内面」と結びついた。
例えば人間の内面なんてぐちゃぐちゃしてる。
社会だって混沌としていて矛盾だらけです。
人間が生きていく中で出会う不条理や深い絶望なども音楽で表現する必要が出てきた。
そういうものを表現するのにきれいな音や和音だけでは表現できません。
その為にあたらしい音(技法)が必要になった。
従って20世紀の音楽はより複雑に、多面的になっていきます。
作曲家ではベルク、シェーンベルク、ストラビンスキーなどがその旗手たちでしょうか。
この流れは絵画や文学でも同じ事ですよね。
キリコやマグリットのシュールレアリズムからピカソのキュビズムやマティスのフォービズムとか。
文学ではこちらもシュールレアリズムからカミュやサルトルに見られる実存主義とか。
目に見えないものを表現するために、既存のものから飛び立つ必要があった。
芸術界にはそういう風が吹いていて、それまでのただ鑑賞するものから、人々や社会を代弁し、世の中に影響を与えるような力を持つものになっていった。
話が広がりすぎてしまった気もしますが、大きな流れで見た時に、そういう時代のうねりの中でブレヒトという人が現れ、その支流の先の方にはコンヴィチュニーがいるんだなぁーという事は知っておいて損は無いと思います。
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で、コンヴィチュニーはこういう事をオペラの演出でやろうというのですから、当然今までの概念を打ち壊すような効果が必要になってきます。
大胆で誇張した表現や、観客を驚かせるような効果など。。。
驚かせる、っていうのもコンヴィチュニーにとっては大切なことかもしれません。
観客の目を舞台に惹きつけ、目を覚まさせますから。
でもね、コンヴィチュニーは別に観客をびっくりさせたいわけではないんです。
まぁ効果として少しは考えていると思うけど、登場人物たちのすべて行動には意味があるし、それは本質を照らす何かであって、決して空疎な遊びでは無い。
氏は言います。
「私は決して作品を曲解しているわけではない。むしろ私はいつも、作品の魂に忠実であろうと思っている。
しかしながらそれは、必ずしも台本のセリフやト書きに忠実であるという事ではない。
例えば200年前のオペラがある。
それは200年前の人々にとっては「今」である。
それを現在、200年前の言葉と動きで同じように演じたとして、それが本当にその作品のあるべき姿だと言えるのだろうか?
その台本作家や作曲家が今生きていたとして、200年前と同じことをやるだろうか??」
ですから、氏の演出でよく取り沙汰される大胆な「読み替え」は、「読み替え」でなく「作品の魂の翻訳」である、というふうに捉える事ができる。
以前にも引用した許光俊著「コンヴィチュニー。オペラを超えるオペラ」には、それは「読み替えではなく、作品や上演を異化し、メタレベルで扱うということだ」、と書かれています。
メタレベルというのは難しい言葉ですね。
直訳すればそのオブジェクト(対象)の次元(レベル)を超えて(メタ)の考察、ということでしょうか。。
それはつまり作品の言葉尻を可視化するものではなく、その作品の在り方自体を表現し舞台に乗せるという事であり、それは僕の言葉にすれば、「魂の翻訳」ということになるのかな思うのです。
長い文章にお付き合いいただいて有難うございました。
僕は思うのですけれど、舞台というものは、100人いれば100通りの解釈があって、それはすべて正解なのだと思うのです。
きっとコンヴィチュニーもそう思ってるんじゃないかなーと。
大切なのは、何かを感じようとしてくれる事。
それこそが、コンヴィチュニーが自身の演出を通してやりたいことなのだと、そう思うのです。。
と、いうわけで、ここまでお読みいただいて、彼の演出に興味を持たれた方は、、是非劇場にお運びください