応援されるということ
今回の部員日記は法学部政治学科3年の和田宙が担当させていただきます。
いきなりですが、先日趣味である野球観戦に行ってまいりました。ヤクルトファンである私は4月6日のヤクルト対広島第一回戦に、弊部の中日ファン中牟田を半ば強引に連行しました。神宮球場に行くのは昨年夏の早慶戦以来約8ヶ月ぶりのことで、久しぶりの球場の雰囲気にとても心踊らせました。結果としては、明治大学の頃からファンであった広島の森下投手に9回完封されてしまいましたが、息の詰まる投手戦でとても見ごたえのある試合でした。ほぼ最前列で見たのですが、野球選手って間近で見るとテレビ画面の1000倍カッコいいんですね!来世はプロ野球選手になろうと心に誓いました。
「応援される」とは?
さてここから本題に入りますが、タイトルにある通り「応援される力」とはなんだろうと最近よく考えます。前節で野球について書きましたが、なぜ自分はプロ野球の中でヤクルトを応援しているのか、そもそも応援とはなんなのか?競技をする者として応援とは切っても切れない縁があり、それを理解することが競技の密度を濃くすることは間違いないと感じています。
先日4年生の浜田さんと食事をご一緒させていただいた際に「応援される人になれ」と言われました。リーグ戦などで応援を背に結果を残している浜田さんのその言葉はとても説得力がありました。応援されるとは何なのか、考えれば考えるほど難しい難題です。応援されようと思った結果応援される、といったことはほどんどの場合起きないからです。応援されようと思って行動している人はほとんどいないでしょう。それでは、応援されるとは「応援される人」以外の外的要因によって起こるのかというとそういうわけではありません。応援される人にはされるなりの理由がしっかりとあるはずです。
私は応援する立場から「応援される人」を幾度となく見てきました。代表的な例をあげさせて頂くと、部員の中では語り草となっている2年前の秋リーグの中央大学戦の尾崎竹本ペアの試合や、最終戦の東洋大学の栗原野口ペアの試合は、応援する立場から「応援される」とは何かを考えるきっかけを与えてくれます。 (あのとても感動的な試合はいまだに鮮明に覚えています。)私なりの結論から先に述べさせて頂くと、応援するとは今までの努力やその場に至るまでの過程を知った上で、結果や成果物が昇華される瞬間を共にするため熱を送るということだと思います。野球で言えば好きなチームが一年間戦う姿を追いかけ、そのチームが優勝を掴む瞬間を共有する為に声援を送る、ということです。
そこから考えると「応援される」とは、努力や過程が他人に認められる延長線上の事象なのだと思います。これは見せつけるように努力するとか、過程をひけらかすことではありません。やるべきことを愚直に行い、真摯に物事に取り込んだ姿が人を惹きつける、ということです。つまり応援されたければ(応援されたいというマインドが先行してしまうのは個人的には微妙な感じがしてしまいますが…)やるべきことをやる、これに尽きるのではないかと思います。やるべきことをやる人は結果的に周りの人を惹きつける魅力を自ずと備えるのだろう、というのが「応援される」ことに対する持論です。私も部活内で上級生になり、やるべきことを愚直に行わなければならないとより一層気を引き締めているところです。
最後に
昨年は新型コロナウイルスにより満足にシーズンを送ることができませんでしたが、今シーズンは今の所無事に大会が開催され、5月には春リーグも控えています。弊部は1部昇格を目指しており、そのためには応援が不可欠です。無観客の試合となりますが「応援されるチーム」を目指して部員一同残りの期間精進して参ります。また、私がリーグに出場する機会を頂ければチームの為に勝利で貢献したいと熱く思っています。その時も応援の力が不可欠なので、応援されるような人間になれるように日々の些細な行動から意識と目的を持って取り組みたいと思います。
拙い文章ではありましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。