北條不可思 ブログ Ⅰ♦Rev.Fukashi Hojo 2021★May 2021/05/01★唯信◇2021(令和3)年5月号
唯信◇2021(令和3)年5月号
謹みて 有縁の皆さまにおかれましては、お念仏ご相続の事と拝察申し上げます。お互いの予定を突き合わせて約束をして、必要な準備をして当日を迎える事を当たり前のように繰り返していた日々を懐かしく思う日が続きます。そしてまた、今〝できること〟の尊さを深く思う日々でもあります。
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本願力(ほんがんりき)にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳((くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし
【意訳】本願のはたらきに出会ったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。あらゆる功徳をそなえた名号は宝の海のように満ちわたり、濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない。
(出典『三帖和讃』浄土真宗本願寺派編)
奇妙に感じられるかもしれませんが、ふと目にとまったお聖教の一節にくぎ付けになってしまうことがあります。知っていたことを改めて知るような、「あぁ、親父さんもこんなふうにあじわっていたのか」と亡き前住職の面影が胸に迫ってくるような、不思議な感覚を覚えます。今月の御和讃は、そういう気持ちで選びました。
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本願は、阿弥陀如来さまが『こういう仏になる』と誓われた願いです。ですから、本願力とは、阿弥陀さまのご本願にかなって完成された救いのはたらきです。名号/南無阿弥陀仏のはたらきです。阿弥陀さまは、法蔵菩薩因位の時に四十八項目の願をたてられて『それが実現できる仏になれないのならば仏にならない』と述べられて五劫もの想像も出来ない長い時間を費やして大変なご修行をなさいました。修行によって得られたすぐれた性質である功徳ですが、『私』には、その功徳を得るための修行を修める力がまったくありません。ですから『私』は、お浄土に生まれる因も縁もない泥凡夫なのです。しかし、阿弥陀さまは、この泥凡夫こそを救いの目当てに定めて下さいました。そして、修行のイロハも出来ない私たちが仏になるために必要な功徳を南無阿弥陀仏のお名号にすべて納めて下さいました。この[弥陀因縁法の物語]に遇える事は、誠に大変な事であります。
親鸞聖人さまは、阿弥陀如来さまの功徳は私たちにとって宝物であり、南無阿弥陀仏(ナモアミダブツ)という六文字のお名号の中に大海の水のように満ちていることを『功徳の宝海』と表現なさいました。そして『濁(った)水』は煩悩具足の姿のたとえであり、煩悩そのものです。透き通っていれば見通すせますが、濁っているから〝あるがままの真実〟を見ることが出来ません。しかし、本来は〝へだて〟となって真実の救いに至らず、むなしく時を過ごし生死の苦海に沈むより他ない愚かなる私ですが、阿弥陀如来さまのご本願のお力にひとたび遇えば、その功徳が満ち満ちて、仏になる身として定まるのです。だからこそ、この不可思議としか言いようのない千載一遇のお出遇いを喜び、これより先のお念仏は報恩謝徳のお念仏としてお念仏申すことを親鸞さまは勧めて下さっているのです。
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かつて仏事法要では、亡き方が懐かしい人々を一堂に会するご縁となって下さいましたが、感染予防対策の見地から集うことは難しくなっております。しかしながら、『私』を阿弥陀さまに遇わせて下さるご縁として亡き方の命がはたらいて下さることに変わりはありません。尊く有り難いご因縁であります。 合掌称佛
北條不可思 法名/釋難思
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