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「人間と社会のあいだを考える」2023年11月、ダー子の場合

「人間と社会のあいだを考える」が、始まる

もうずっと前からtwitterでフォローして考えをたくさんうかがってきたナースあさみさんと髙崎順子さんが、おふたりでnote メンバーシップにてエッセイ投稿と掲示板を用いた意見交換の場を用意してくださるとのことで、これはぜひ参加したい……!と思いつつ、無職なのでお財布事情がお財布事情で迷っている今日この頃です。→11月から参加しました!!
参加できるかはさておき、テーマが素敵なのでそれぞれのテーマについて今考えていることを書き残しておきたいなと思いました。
もし参加できたら、みなさんとの交流の中で、自分がどのように変わっていったかも観察できるので、そのための記録でもあります。
各月のテーマは下記の通り。今何を考えているか、書いていきましょう!

予定している各月のテーマはこちら
時間の使い方を考えよう。2時間あったら、何をする? 
働くことと休むこと
人間のどうしようもなさ
人の弱さについて
助けること、助けられること
ケアと医療
割り振られた集合体である家族、その関係性と「わたし」
ジェンダーとセックスの話 
どう生きるか、どう死ぬか


2023年11月、ダー子の場合

時間の使い方を考えよう。2時間あったら、何をする?

寝る。か、ノートに頭に浮かんだことをひたすら書きつける。最近は実際この書き物に1日2時間くらいを費やしている。無職でないとできないぜいたくな時間の使い方だなとは思う。
うつ病だからなのか、考えすぎる性格だからなのか、もともとの脳の特性なのか、主観としては、頭の整理に困難を抱えている。ゆたかな人生のため、というよりはサバイバル術である。

働くことと休むこと

新卒入社した会社を半年ちょっとで休職後退職、その後大学院も試したものの無職生活が続いているわたしは、働くことより休むことになじんでいる。

もしだれも働かない生活だったらどう生きていくだろう?と考えた。縄文時代に戻るイメージである。たぶんすべてのことを自分でしなくてはならない。狩りとか、木の実拾いとか。寝られる場所を確保するとか。そう思ったときに、つらいなーと思った。休める気がしないなーと思った。働くというのは、「自分がやるはずだったことを他人にやってもらう代わりに、誰かが自分でやるはずだったことをやること、そして休みを確保すること」という定義に自分の中で決まった。できないことは積極的にゆだねて、できることをどんどんやっていく。そして、人間は休む時間をつくるために一生懸命「こと」を交換し合っているのだから、存分に休んだらいい。そう思った。

賃金が発生するかは別として、「役割」がないとじわじわと心がむしばまれていくんだなというのは、無職生活の感想である。うつ病になった当初は、本当になにもできずにただ寝ていたが、少し元気になっていくと、「所属がほしい」とか「誰かのために何かがしたい」とか、思うようになっていった。大したことではない。一緒に暮らす人が心地よく暮らせるから床を掃除しておこうかな、といった程度である。そんな小さな「役割がほしい」が少しずつ大きくなっていって、恐る恐る「働きたい」と思っている今日この頃である。

複数の役割を持つことは人生のリスクヘッジだな、と思った。役割は、たくさんあったほうがいい。そんなことを考えるきっかけになったのもナースあさみさんのnoteだったりする。これ↓。

人間のどうしようもなさ

人間の大半は水なのに、どうしてこんなにいろいろやらかしてしまうのだろう。水のように大体無害な人生が送りたい。
欲と衝動のままに動いちゃって動物みたいだな(まあ動物なんだけど)。知性/理性はあるはずなのに、機械みたいに動けないな。インプットだって簡単には入ってくれないし、認知だってどうしようもなく歪んでいるときがある。人間のどうしようもなさ、というより自分のどうしようもなさが嫌いで、いっそ機械のようになりたいと思う瞬間がある。

人の弱さについて

人の弱さって、なんだろうなと思う。強さ弱さは流動的で、環境や役割に応じて、ある特性が強さになったり弱さになったりするのだと思う。しいて言うなら普遍的な「強さ」があると思い込んでしまうことが人の弱さかもしれない。

助けること、助けられること

「助けようとしてくれた人に傷つけられる」も「助けようとしてなんかいない人のなにげない行為に助けられる」のも、あるあるだと思う。ある状況で、何が助けになるかなんて、人は案外わかっていないのかもしれない。
「あえて何もしないで見守る」といったことも含めた配慮の循環があることが大切なのではないかと思う。ただ、人びとの「助け」は、どうしても偏ってしまう。まんべんなく行き渡るとは限らない。生命と尊厳だけは仕組み(=福祉)で下支えすべきだとも思う。

ケアと医療

うつ病になって4年、純粋な「医療」にできることは案外少ないかもしれないなと思っている。純粋な、というのは、医療にもケアは多分に含まれていて、それらを取り除いた「医療」にできることが少ないということである。わたしは膨大なケアとちょっとの医療、そして心理療法で生きている。

「うつ病は心の風邪」とか言うけれど、実際は糖尿病に近い、と誰かが言っていてそうかもしれないなと思う。時間のスパンがとにかくゆっくり。1つの薬を試すのに2週間かかる。やっぱり合わなかったね、とその薬を抜くのにもう2週間。これでもう1か月。同時に2種類以上の薬を始めたりやめたりするのはあまり好まれない。そういうスパンを生きていると、あっという間に1年がたつ。そんな話もメンバーの方と語り合ってみたい。

割り振られた集合体である家族、その関係性と「わたし」

「割り振られた集合体」と聞いて思いつくのは、生まれ落ちた家族と、義務教育の学校である。最近思うのは「やりすごしていく」ことの必要性、淡々と暮らしを積み重ねていくことの重要性である。その土台として大切なのは「互いに安全・安心できる場を作りあおうね」という了解で、身体的・精神的暴力が起きていたら逃げる必要はある。
「人間と社会のあいだ」なので、「家族と社会」の話をしておくと、制度として社会に「家族」は組み込まれている。こと日本では、社会のひずみを吸収し助け合う場所として、家族は頼りにされているふしがある。個人的には「助け合わなければならない」という「ねばならない」は解体すべきで、「家族」ではなく「わたし」という「個」を支えるしくみが作られるべきだと思っている。

ジェンダーとセックスの話

「ジェンダーとセックスの話」というと、すぐ性的マイノリティの話になる。たしかに必要なのだけど、間違っていると思う。なぜマイノリティだけが「問い直され」なくてはならないのだろう?
マジョリティが「自分は普通だ」と思い込んで想像している「普通」のなんと不確かなこと!奇妙な個別事案のはずなのに唯一の固定された「普通」があるという幻想!そして男が「普通」であるという幻想!そんな「普通」の幻想を暴いてやりたい。そしてその「幻想」でしかない「普通」から自由になりたい。

どう生きるか、どう死ぬか

わたしは、死んだら無になるから、天国も地獄もないと思っているので、
①他者(含むネット上)の記憶・記録に何を残すか
②どんな物理的なモノを残すか
③どの契約を残しておくか(契約ほど処分に厄介なモノはなさそう)
そこから逆算して、どう生きるか?だと思う今日この頃である。
あさみさんが想定したのは、延命治療や介護の話だと思うので、これから考えていかないとと思っている。
「人は案外コロッと死ねない」といった趣旨のことをあさみさんがおっしゃっていた気がするので、コロッと死ねなかったときのことを考えたい。
エンディングノート、書いてみようかな。
社会の話をすると、この高齢かつ人口減少社会で、どうやって社会をスリムにするか、閉じるところは閉じるのか、その流れでどうやって人権(居住の権利とかね)を尊重し続けるのかは大きな問いだと思う。

書いてみて

自分の体験を書くことは思いのほか難しい。学術用語に頼ったほうが楽にかけてしまう。
自分の体験を、自分の言葉で、がこれからのテーマになると気づけた。
半年遅れでごめんなさい。あさみさん、髙崎さん。

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