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Ⅰ 三河支配の成立 #4 三河支配と三河三奉行

三河の統一

家臣団を二分するような一向一揆を克服し、次は東三河の統一を図る動きに出た家康。
永禄7年(1564)2月27日、奥三河の奥平定能さだよしに対して東三河各地で知行をあてがっており、この時点で奥平氏が松平氏の傘下に下ったことを表している。
5月13日、渥美の二連木城城主の戸田重貞の忠節を賞し、東三河各地を安堵、新知をあてがっている。
5月14日、岩瀬河内守の帰参を許し、宝飯郡大塚郷を安堵するとともに、長沢城(豊川市)の在番を命じている。
6月22日、酒井忠次に東三河の統括を命じる。豊橋の吉田城に入るよう命じる。
6月、本多広孝に対して田原・梶砦を委ねる。

早速にも東三河を治める豪族たちを束ねるため、使者を使い、領地の安堵を条件に家康公に降るよう交渉。家康公に従う豪族が増え始める。
家康の祖父・清康が、一度三河全域を支配したこと、今川義元亡き後、氏真が東三河の統治をないがしろにしたことの2点から、スムーズにいったのではないか、と私は考える。

吉田城には大原資良すけよし、田原城には朝比奈元智もとともがそれぞれ今川方の武将として守備していたが、忠次宛ての文書が6月に発給されたことをみると、6月時点で開城したことがわかる。
『岡崎市史』にも指摘があるように、永禄8年3月に落城したもの、とみるべき。
そうなると、酒井忠次の吉田城主任命、本多広孝の田原城守任命は永禄8年のものになる。

家康公は東三河の統一を1年で成し遂げたことになる。

永禄9年(1566)5月、最後まで抵抗した牧野成定が家康に帰順。これによって、三河一国の統一が完了した。
(加茂郡の矢作川以西は終わりの織田軍が支配していた。)

徳川改姓と叙位・任官

三河を制定した頃の徳川家康は「三河三奉行」を置かれた。
「仏こうりき(高力清長)、鬼作左(本多重次)、どちへんなしの天野三兵(天野康景)」

三河三奉行の役割は、三河領土内の統率、兵糧の調達、流通組織の整備・拡張。

※実際には根拠資料が少なく、その時々に応じて奉行人が支配に関与していたとみる説もある。

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