三河の統一
早速にも東三河を治める豪族たちを束ねるため、使者を使い、領地の安堵を条件に家康公に降るよう交渉。家康公に従う豪族が増え始める。
家康の祖父・清康が、一度三河全域を支配したこと、今川義元亡き後、氏真が東三河の統治をないがしろにしたことの2点から、スムーズにいったのではないか、と私は考える。
家康公は東三河の統一を1年で成し遂げたことになる。
徳川改姓と叙位・任官
三河を制定した頃の徳川家康は「三河三奉行」を置かれた。
「仏こうりき(高力清長)、鬼作左(本多重次)、どちへんなしの天野三兵(天野康景)」
三河三奉行の役割は、三河領土内の統率、兵糧の調達、流通組織の整備・拡張。
※実際には根拠資料が少なく、その時々に応じて奉行人が支配に関与していたとみる説もある。