3月28日(火)長篠・設楽原古戦場
今日は、兼ねてから行きたかったこの古戦場へ出立。
西三河の自宅から1時間ほどで到着。新城ICを降りてすぐだったので、距離はあったが、意外と早く着いた。
この辺りでは、”長篠”ではなく”設楽原”という言われ方をしていた。また、合戦の日付は5月21日。桶狭間は5月19日。そして本能寺の変は6月2日。信長にとって、5〜6月は運命の分かれ道の月なのかもしれない。
実際の馬防柵は2kmにもなる長いものだった。
手前左にある小高い山は、主に徳川陣営、奥の小高い山が織田陣営の布陣。
このほかにも、”信玄塚”と呼ばれるものがあり、多くの武田家臣の墓が奉られていた。
当時は馬防柵は2kmあり、次々と鉄砲玉を撃ち込まれていた。
長篠・設楽原の戦いは、本来であれば武田側にとって、とても不利な布陣だったそう。そのため、重臣から反対意見が多数出ていたが、功に焦ったのか、信玄の息子・勝頼は、この馬防柵に向かって突撃の命令を強行する。
その結果、多くの重臣を失う大敗となってしまった。
設楽原古戦場いろはかるたに関心を寄せながら、徳川本陣・武田本陣を巡った。
辺り一帯を散策して感じたことは、鳥のさえずりが聞こえるばかりでとても静かだった。
”夏草や つわものどもが 夢のあと”という俳句がまさにぴったり当たる雰囲気だった。
地形を知ることで、当時の合戦の様子が少しでもイメージが沸いてくる。
さて、長篠・設楽原古戦場を散策した後は鳥居強右衛門で有名な長篠城跡へ
長篠城は、周囲を断崖に囲まれる要害の地。難攻不落な城であることが一目でわかるくらいに三方を崖に囲まれていた。また、近くには滝が流れていた(近づくことはできなかった)。
鳥居強右衛門は、長篠城兵糧攻めで陥落の危機に瀕した時、使者として武田軍の包囲網をくぐって、織田徳川連合軍に援軍を求めに行った。その帰りに武田軍に捉えられてしまい、「援軍は来ないと言え」と強要されたにも関わらず、「援軍は来る!安心して持ちこたえろ!」と言い放ち、磔の刑にあった人物。自分の命と引き換えに長篠城、ひいては織田徳川を守った名将として今に語り継がれている。
戦場に赴くことで、様々なことを感じ取ることができる。当時の地形やエピソードなどを聞き、当時の人々の決死の想いが今の日本人につながっているんだな、と心に染み入った。
今、日本人が「サムライ」や「礼儀正しい」などと言われているのは、先人たちが風土を築き上げてくださったからこそのこと。
敗軍の将も、勝者も、今となっては双方ともに尊敬の念を抱く。
今の平和な世の中も、この方々の努力の賜物であることを忘れてはならない、命を大切にしないといけないな、と思った。