ギフテッド、能力を隠すか出すか問題
こんばんは、よしたくです。"浮きこぼれ"ギフテッドとして社会でガードレールにぶつかりまくった先で、なんとかありがたい環境にたどり着き、当事者を応援できる立場になった人間です。
自分は、ギフテッドが生き方を選ぶ大きな分かれ道の一つに"自分の能力を出すか、または隠すか"という観点があると思っています。もちろん100%と0%の二択ではないですが、悩ましいポイントです。
そこで今回のテーマはこんな感じです。
・なんで隠す必要があるの?能力発揮した方が楽でしょ?
・で、ギフテッドは能力出した方がいいの?隠した方がいいの?
・ギフテッドにとって辛いのは教育の時?社会に出た後?
いずれも人それぞれなので自分が結論を出すことはありませんが、「こういう軸で考えると参考になるかも」という提示をするものだと思ってください。
当事者が見る自分の能力とは?
ちょっとお恥ずかしいのですが、自分が仲間と有志で楽曲を制作したときに"自分の特性に苦しみ、それを隠すかどうか葛藤を続けた"という経験を、ストーリー調で歌詞にしたことがあります(実はその楽曲をNHKさんの出演時にこっそり流していただきました)。歌詞そのものは遠回しな表現にしているので、そのストーリーを身近な言い回しに置き換えるとこんな感じです。
街で暮らすある青年が、道端で不思議なメガネを拾い上げる。そのメガネをかけてみると、驚くことに果てしなく遠い景色までくっきりを見渡すことができた。
メガネの不思議な力に少し興奮しながら景色を見渡していたが、その時にあることに気づいた。遠くの山をよく見ると、他国の軍隊が銃や武器を携えてこちらに向かって歩みを進めていたのだった。
慌てて青年は声を上げて周りに危険を報せるが、街の人々にはとうてい信じてもらえなかった。
「私にはそんな景色は見えない、いたずらに嘘を言うな」
「気味の悪い虚言で周りを不安を掻き立てる狼少年だ」
「下らない事を言って目の前の仕事をサボるんじゃない」
「そんなことを昼から堂々と言うお前はきっと気が触れてしまったのだ」
結果、青年は幻覚を見る異常者として病院の個室に閉じ込められ生活することになった。しかし病室の窓の向こうには、かつて遠くの山にいた敵の軍が日に日に近づいてくるのがメガネ越しに見えていた。
ますます慌てた青年はより強く周囲に訴えるが、周囲からの視線は更に冷ややかになり、飲まされる薬の量は増え、気がつけばメガネを取り上げられベッドに鎖で縛りつけられてしまった。
動くこともできず朦朧とした日々を過ごしていた青年だが、解放の日は突然訪れた。敵軍が街に到着し攻撃を受け、その衝撃で偶然にも枷が壊れ外れたのだ。
そしてふらふらと覚束ない足取りで外に歩いて出た先に見えたのは、跡形もなく焼き尽くされた街の姿だった。
青年の目を覚まさせるように、いろいろな思いがこみ上げる。
自分を信じてくれなかった街の人達への怒り。
こうなることが見えていたのに何もできなかった悔しさ。
自分を信じなかったからだ、ざまあみろ、という復讐心。
そんな中で足元を見ると、そこには擦れて削れボロボロになったメガネが転がっていた。
青年はそのメガネを拾い上げ、
…というものです。不思議なメガネを拾った因果でえらい目にあってしまった、という青年を描いています。
さて、みなさんがこの青年だとします。上記では最後の描写は省いていますが、あなただったらこのメガネに何を思い、どう扱うでしょうか。
「こんなメガネのせいでとんでもない目にあった」とメガネを恨み踏みつけ、粉々にする人。次からは「メガネで見えたものは誰にも言わず自分はとっとと逃げ出そう」と誓いながらそっとメガネをしまう人。「このメガネは大事なものだ、きっとなにかできることがある」とまたメガネをかけ直す人。いろいろな人がいるでしょう。
これが"浮きこぼれ"ギフテッドが自分の生き方を決めるときの景色なんじゃないかなと、勝手に思いながら歌詞として表現していました。
あなたはこのメガネを欲しいと思うでしょうか?
実世界に戻して考えるならば
例えたものを元に復元するならば、こうです。
メガネは、ギフテッドが持つ創造的、抽象的、あるいは広い思考能力です。それによって見える景色は、本人の中ではきちんと思考や感性を積み上げているにも関わらず周囲には理解してもらいにくいような思考や表現です。伝わらないので、まるでオバケを見ているかのように他者に見られます。
学校や会社では、この青年のように理解されなかったり誤解されたり、ときには受け入れてもらえないばかりか人間として否定され、レッテルを貼られることがあるかもしれません。それどころか、医者からも人格障害や能力の欠如を言い渡されたり、結果としてフィットしない薬が処方され、効かない故にその量がどんどん増えていくこともあるかもしれません。
存在を否定されることに怒りを覚えたり、誰にも理解されないことが悔しかったり、後から手の平を返されて「ほれみろ」と恨めしく感じて返って孤独に苛まれることもあるでしょう。
だからこそ、その先の選択は様々です。
メガネを捨てるように、自分の能力を嫌がり隠して社会に溶け込もうとする人。逆に考えを内にとっておき、周囲との余計な軋轢を回避するために能力を使う人。メガネにしがみつくように、自分の能力の価値を信じて発揮しようとしがみつく人。
そんな中で、自分の場合はたまたま最後のケースだった、というそれだけです。
選択のよりどころは"創造性"、"我慢ができるか"
では、これを踏まえて「で、能力は隠した方がいいの?出した方がいいの?」という話です。後ほど詳しく職種など例を交えて書こうかと思ってますが、ここではざっくり。
自分があまりロクな経験をしてこなかったから/できなかったから、という経験に偏った結論かもしれませんが、個人的には「隠せるものなら隠しておくのがいいよ」と言ってます。だって、危ないもの。
ですが、うまく隠せない難儀な一面がギフテッドの特性として挙げられるのを見るし、自分も納得します。それは"情熱"と"好奇心"など、内的な欲求です。隠した方が安全と思いつつ、この欲求が内側から突き上げてくるので隠せない。そういう人もいます。
そもそもアーティスティックな能力や抽象化思考/水平思考でアイデアを生み出すような"創造性"があるからズレるのであって、そうでない人はそもそも隠す必要がないかもしれません。
そしてそんなズレるリスクがあったとして、それを表に出すことに興味がなければ隠せばいいわけで、そんな中で自分を閉じ込めることに"我慢ができない"人もいるでしょう。
そんな能力や特性が、ギフテッドの生き方を大きく左右するように感じます。
学校がつらい?会社がつらい?
こうした要素を照らし合わせると、きっと学校が辛くて大変だっただろうなという人もいれば、会社で仕事するようになったら前より辛かった、という人がどちらもいるのは合点がいくような気がします。
社会に出て楽になったという人は、自分の裁量で能力をセーブせずに発揮してそれが生活に繋がるといううまくピースがハマった人かもしれないし、うまく周りの考えを察知して自分を隠したり、ズレる余白のない仕事の中で安全を確保する人かもしれません。
社会に出てからが大変だという人は、自身の能力が生活を支えるには不安定なものであったり、自分を出したが故に周りに理解されずレッテルを貼られてしまった人だったり、自分を押し潰すことに苦しんでる人だったりするかもしれません。
自分と向き合って考えよう
そういう意味で、ギフテッドというひとくくりで、人それぞれのよい生き方/そうでない生き方を決められる道理はありません。ひとりひとりの特性を前向きに受け止めて、周りでなく自分にとってよい選択肢を考えることが大事なのだと、さんざサバイバルを通過した立場でやっと感じています。自分自身もギフテッドという言葉を知ったのはつい1年ほど前で、それまでは自分のことを正しく受け止めていませんでした。
これから多くの方が苦労されると思いますが、その中でみなさんが自身の特性を「あってよかった」と感じられる道を進まれることをお祈りしております。
恥ずかしながら最後に、冒頭で紹介した歌詞の原文を載せておきます。
彼方に軍旅の粒子 レンズ移す小さな実像
近眼の群れに報せども 鈍い目には人狼の扇動
病床の窓から眺める粒子は
銃口の群れとなり迫る
僕の喚きが響くほどに薬と枷は数を増す
条件反射のご都合主義は空を辿り
街に蔓延る
襲撃の跡形見て 歯を軋ませてあざ笑う
削れた眼鏡胸にかけ僕は
呆然、消えゆく
それでは、また。