"完璧"は通過点として、使うのが良いんじゃね?
TOPの画像は、トラボルタ、ジェイミー・リー・カーティス主演、1985年のエアロビ映画『パーフェクト』なんだけど、マジでこの記事には関係ない!
テーマが『完璧』についてだったので、苦し紛れに採用した次第です。
今日は映画のレビューではなく日記である。
時々、思い立ったように書く散文、乱文、戯言の類なので、まぁ「こんな珍獣もいるんだ~」ぐらいで楽しんでもらえれば幸いである。
今、急に思い立ってこの記事を書いているので、恐らく間違いなく乱文である。読みにくい出来になっているのは勘弁してほしい。
急にブッ込むが、実をいうと僕は完璧主義者である。
だけど周りの人からしたら、そんな "カタい" 神経質な印象は持たれてないと思う(たぶん……知らんけど)。
口癖といえば「面倒くさい」「ま、いっか」「関係ない」などなど、何か物事に対して、ネガティブで、距離のある、どこか消極的な言葉であり、基本は頑張りたくないがモットーである。
が、しかしコレは、幼いころから備わった根源的な性質ではない。
色々と人間関係と人生経験を経たうえで身に着けた、いわば処世術であり、自己防衛術である。
完璧主義とはいったが、僕の場合ややこしいのが、混じりっけナシの正統派で堅物な分かりやすい完璧主義ではなく、かなりルーズで自分の中にある整合性や辻褄、筋が通っていれば良くて、そこのみに特化して至極個人的に"完璧主義"なのである。
だから周りからは分られにくい上に、事情を尋ねてきた相手からは度々「え!気なってるの、ソコかよ!?」という状態になるし、周りが全然気しないような些細なことでも、自分の中では大問題だったりして、いつまでも「うーーーーん」と悩んでいたりする。
いやいや、自分の完璧主義自慢や不幸話をしたかったんじゃない。
ふと「"完璧なモノ"とは何だろう?」「"完璧"とは心や人の感情のおいて、どういう状態なのだろう?」と、トイレで思い立ち、何となく考えたことを書き残しておきたかったのだ。
"完璧"とは、想い出である
"完璧"という言葉にはいろいろな名詞や様子が、そのすぐ後ろからくっ付いてくる。
完璧な景色、完璧な生活、完璧な美女、完璧な映画、完璧なシステム、完璧な犯罪、完璧なアリバイ……etc
何もかもこの二文字を付ければ、それは即座に最上位の状態に置かれ、他の追随を許さず、間遠事なきTOP of TOP!それが"完璧"なのである。
がしかし、この"完璧"は誰のモノだろうか?
誰が何と比較検証し、何を根拠に"完璧"の王冠をあらゆる事柄にかぶせるのだろうか?
例えは『ラストナイト・イン・ソーホー』のダブル主演であるトーマシン・マッケンジーとアニャ・テイラー=ジョイとでは、どちらが完璧な美女であろうか?
アルプスの雪景色と南米のジャングル深緑、サハラ砂漠のきらめく砂粒の中で迎える日の出では、どれがより完璧に美しい景色なのか?
結局、その瞬間の状態を何をもって"完璧"と定義するかは、その場所にそこにいる観測者、つまり自分の感想であり思いの一つでしかない。
さらに残酷なのは(あまり考えたくないが)、彼女や妻から「23歳のころの彼は、本当に完璧だった……」というような、精神的殺し文句からも分かるように、"完璧"は次ぎ去ってゆく状態でもあるのだ。
宅配ピザが家に到着したとき、既に焼きたてアツアツでないのと同様に、"完璧"は瞬間の出来事であり、過ぎ去りゆく想い出に他ならない。
この世にある完璧は常に瞬間的であり、同時に過去のものである。
しかし、この完璧という状態を唯一、永遠に近い状態に"置いておく"ことができる裏ワザがある。
人類史と完璧とプリウスミサイル
ここで話が180度変わるが、僕は人の作るものはそのほぼ全てが、"くだらないモノ"で、ロクなモノじゃないと思っている。
人類の歴史を見れば、その繁栄の道は同じ人類の流した血の色で染め上げられている。
人類史がテーマではないので軽く端折って書くが、生活の効率化の中で石器が生まれ、火を扱えるようになり、自然信仰から神という抽象概念を生み、その為に命を張り、国家は経済と資源の為に植民地開拓という大冒険をこぞって行い、近代では爆弾一つで町ごと消せる大発明をした。
我々人類は、そうやってありとあらゆるモノを創造して繁栄してきた種である。
おかげで、この国では最低賃金でも、何とか壁と屋根と水道があり、電気が通っている鍵のかかる部屋に、人権を維持したまま住めるである。
ちょっと話がそれてしまったが、こんな超知的なうえに暴力史をいまだに地上に刻み続けいる天才バカ人類は、この歴史の中で常に過去の世代より、世界を良いものにしようとしてきた歴史があるのも事実である。
宗教においても、その時代での腐敗から批判が起こり改革へ繋がったし、戦争では自国の兵や領土を失わないために常に過去よりも良い戦果と勝利を得ようとするし、科学も前の時代よりもより便利で快適な世界を築くために洗濯物を自動化し、ビデオをDVDにし、さらに電気信号に変え、人類を携帯電話の中毒にした。
完璧を永遠にするために
極端な話だが、その長い歴史の中に"完璧"を目指し、奮闘した人々がいたのは紛れもない事実だ。
より良い世界、より正しい教え、より便利な生活、よりストレスフリーな社会を目指す、個人ないし集団が結果的に世界戦争から、プリウスミサイル(ブレーキとアクセルの踏み間違え)までを生み出してしまったが、それは"完璧"を目指す人類の哀しい弊害(避けられたかもしれないが)であり、しかしその弊害を踏まえてもこの世界は100年前より進歩している。
それは歴史の狭間でより"完璧"を追い求めた者たちの努力と執念の結晶であり、"完璧"という状態を「今この瞬間の想い」という過去に留めたのではなく、次に到達すべき「通過点」として目指したからではないかと思う。
つまり僕がこの記事でいいたいのは、"完璧"は定義する状態ではなく、追い求めるべき目標として扱い、常に心の中に"置いておく"ほうが、その言葉の意味するところや、価値は言葉それ自体以上に、価値を増幅させ、自身の生活や延いては社会への影響すらも起こりえるのではないか?
現状がどうであれ "完璧" を心の奥底で掲げ追い求め続けること、そうして"完璧"を瞬間の想い出にするのではなく、永遠の目標として利用することで、その言葉の真価が表れるのではないか?
だからといって"完璧"を目指すことにかまけ過ぎて、どこまで行っても「まだ完璧じゃない……」という疑心暗鬼に陥ってもダメなんですケドね。
この"完璧"を言い換えるなら"行けるとこ"です。
最初は程度も、感覚も分からないから"行けるとこ"まで行ってみるのです。
「何かを始めよう、創りだそう」と思ったら、その情熱に駆られたら、自分のできる範囲で現状の中での"完璧"を、とりあえず目指してみるのはいかがでしょう?
例え、自身の理想に到達できなかったとしても、それってその後から凄い力になる気がします。
なんてことを考えてたら、深夜1時でなりました。寝ます。
明日は朝から『スパイダーマン』新作や……。
トホホ。