さよなら2024年

 ご無沙汰しています。最近は思うところあり、記事の更新を止めています。記事自体は書いていますが、それを発表して記事を世に問うというのを控えています。
 それはそれとして、今回は毎年恒例の、ランキングを肴に駄弁っていこうという企画です。記事が長くなりましたが、ゆっくり読んでもらえればありがたいです。

今年のアクセスランキング

1位 俳句結社の良いところ、悪いところ
(https://note.com/da4_men2/n/nc54dc91935b1)

2位 季語つれづれ〜感情語の魔力
(https://note.com/da4_men2/n/nfbca64b7fc0d)

3位 無季俳句と川柳を区別したい
(https://note.com/da4_men2/n/n2967adda4623)

4位 恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣
(https://note.com/da4_men2/n/n9440b190d7e4)

5位 不易流行について考えよう
(https://note.com/da4_men2/n/n9e6494f6e5a0)

6位 俳号を何故つけるのか(コンパクト版)
(https://note.com/da4_men2/n/n3feb91830150)

7位 空調服かファンジャケットか〜新季語を作りたい
(https://note.com/da4_men2/n/nfbcd5673eb40)

8位 かってに切字論
(https://note.com/da4_men2/n/n8dfe388d91b3)

9位 「新俳句」の研究
(https://note.com/da4_men2/n/n6f6ebbed5084)

10位 俳句を何故詠むのか〜或る無名俳人の場合
(https://note.com/da4_men2/n/nfe39f729f853)

次点 俳句を教えることについて(コンパクト版)
(https://note.com/da4_men2/n/n2e21a968dcea)

(2024年12月19日現在)

答えのない問いについて

 おかげさまで、難しいテーマの記事のアクセスなどもありまして、ありがたいです。難しいテーマは、いうならば「答えのない問い」に対する解答の一つであり、アクセスの多い記事の中なら、不易流行、俳句と川柳の区別などが該当すると思います。こうした記事は、俳壇の権威となるための記事というより、自分ならこの問いに対してどう答えるかを試みた部分があります。若い読者さんならこうした試みは学校でこなしていることもあると思いますが、年長の読者さんだと権威に挑戦しているように読むかもしれません。書く方のモチベーションとしては、既にある概念の追試みたいなもんで、巷ではこう言われているけど、実際のところどうなんだろうと思いながら書いています。
 考察の材料をどのような論理によって結論に導くのか。実際にやってみて思いますが、仮説の立て方や仮説の材料を当意即妙に見つけるのは大変です。考察材料が足りないとか、例示が結論を誘導しているのではないかなど、気を揉むところがあります。
 明快な正解がない、自ら問いを見つけて考えることの一助に、これらの記事が役割を果たすことができたなら幸いです。

俳句結社について

 「俳句結社の良いところ、悪いところ」がうちの規模では、ロングヒットを飛ばしています。俳句を勉強したいけど、俳句結社に入るか入らないかどうしようと悩む方が多いのかと思います。
 記事で示したところでは、俳句結社に入れば、会員の俳句は結社のものになる。結社のものになるのならば、より良い品質のものを世に提供するために結社が会員に教育をしっかり施さなければいけないという論旨であったと思います。現に、現代の結社では、育成力がセールスポイントの一つになっているといってもいいのではないでしょうか。全国規模の俳句大会で結社別に入選句の数を数えるのは、結社の指導力を競わせている部分もあると思います。
 『俳句』誌の2024年後期の時評で、結社についての意識調査を行っていましたが、時評の筆致は結社の持続に前のめりで、結論を誘導するのは調査としてはあまり褒められたものではないと思いました。俳壇にとって最も大事なのは、結社組織の維持ではなく、俳句の質量の向上ではないかと思います。結社は俳句が上手くなるための手段であって、必ずしも俳句をやる目的ではないと思います。時評は、結社でしか表現の教育をすることができないと視野狭窄になっている印象を受けました。結社は確かに教育効率はいいけど、人間関係が上手く作れなくて続かないこともあります。受験予備校と同じで、結社を上手く利用しながら距離を保つ勉強方法もあるはずです。例えば、最近はメール句会や夏雲システムを使った句会も一つの勢力と言っていいほどに成長していると思います。人間関係が濃密になりすぎないという意味でも、良い試みであると思います。勉強するにしても、最近はインターネットでも色々な情報が手に入るようになっています。色んなアプローチから趣味に関われるようになれるといいのですが……。
 僕の文章を読む人たちの規模からしても、結社に入るか悩んでいる人は無視できない数いるように思います。懸命に結社を推す人は、結社に合う人へ相性の合う結社を探すことを働きかけていけばいいけれども、結社が合わない人のために創作環境を整備すること、すなわち教育の多様化は、今後ますます進んでいくと思います。そのために、ただ無批判に結社はいいよと勧めるだけではなく、結社のいいところ、悪いところを知った上で進路を選ぶという情報提供の仕方に、一定の需要はあるのだなと思いました。

不易流行について

 不易流行について、持論では変化の中に不変があり不変の中に変化があるという、物質の観察に重きを置いて考察していきましたが、「かるみ」論の先行文献を読んでいるうちに、従来の不易流行論が腑に落ちました。すなわち、表現する者は完成された表現を目指しながら、変化し続けることを目指さなければならないという議論です。これは、物質論に対する表現論というべき議論です。
 色々な文章を読んでいると、特に前近代の芸能に携わっている人は、異口同音に変わり続けることの大事さを説いています。俳諧でも、伝統に安住したいような発句が多く、伝統にもいい部分はあるけど、それに留まるのはいけないということで、不易流行論が起こったとされています。伝統や安定というのは魅惑的なもので、優れた表現が時代を超えて歌い継がれているので、それを大事にしようと不易論では考えているようです。一方で、辞書を読むと、不易流行は、何はともあれ変化(流行)こそが本質という人もいるようです。自然に伝統に安定しようとするから、とにかく変化を求めることでバランスが出るというのであれば理解はできますが、変化を求めるだけだと流行論の説明になってしまうので、理想の完成を目標にして、理想を達成した後に完成させたい目標を設定し直すように考えています。
 持論に二つの説が出てきた訳ですが、観察と行動という異なる立場が考え方の核になっているので、重大な矛盾は起こしていないと、今のところは考えています。多分。最近、不易流行が言葉として流行っているので、持論だけでなく、従来の議論に立ち返って考え直してみました。これからの行動目標としての不易流行は、「完成を目指せ、完成にとどまるな」でよろしくお願いします。

俳句鑑賞について

 今年は鑑賞の記事をよく書きましたが、アクセスが多い記事は、やはり有名俳人の句になってしまいますね。テーマごとに鑑賞して、一つのテーマを深掘りするアプローチは書いていて楽しいですが、題材によっては、読者さんを置いてけぼりにしてしまう書き方のようです。
 最近学んだこととして、鑑賞には、解説的アプローチと批評的アプローチがあるようです。ざっくり考えて、解説的アプローチは、作者に寄り添って作者が何を描こうとしているのかを考える材料を提供すること、批評的アプローチは、基準を設けて作品を並べて、作品がどのような立ち位置にあるのかを整理することと考えられます。僕の記事であれば、一句鑑賞は前者、テーマ鑑賞は後者の性質が強く、最近、テーマ鑑賞を書くことが多く、新作はあまり読まれていないので、読者さんの好みの傾向としては、テーマを通じて作品の立ち位置を俯瞰するより、作者の描く世界に没入したいという需要が大きいようです。
 とはいえ、読者さんの気分はゆっくりと変化して、最初に問題があっても時間が解決してくれることもあるので、自分で納得のいくものが書ければ、初動の数字をあまり気にしてもしょうがないですね。

俳句入門記事について

 マガジンを作って、俳句論と川柳論、俳句鑑賞の記事をまとめています。「俳号を何故つけるのか(コンパクト版)」「かってに切字論」「俳句を何故詠むのか〜或る無名俳人の場合」という記事が、マガジンのうちの「かってに俳句論」でまとめられたもので、読まれている記事となっています。
 「かってに切字論」は、今読むと、SNSの論争のまとめ記事みたいですが、論争で提示された二つの作り方から作者が好きなものを選ぶのが個性であるというまとめにしたのが、長い期間を経て読まれ出した理由のように思います。正解は一つでなくてもいいのかなと、アクセス数を見ていると思い直します。
 「俳号を何故つけるのか(コンパクト版)」も、俳壇での論争から着想を得て書いた記事です。ちなみに「コンパクト版」というのは、一度書いたものの文章が滅茶苦茶になっているもの、あるいは考察材料が際どくて論として読めないものの中から、論旨だけを抽出して書き直したものです。この記事については、後者だったかな? 要するに、一度書いたものの、諸々の事情から没にした文章の論旨を再利用したのが「コンパクト版」の意味です。
 記事についてですが、名前を付けるという行為は、「名は体を表す」、自分がどう振る舞いたいかの願いを込めた行為で、色々考察したけど、その発想を超えるアイディアは出てきませんでした。俳句をふざけてやりたい人はふざけた名前にしていいし、俳句を真面目にやりたい人は真面目な名前にするのがいいというのはありますね。基本的に「俳人」と呼ばれている人たちは、真面目に俳句をやっている人が多いので、名前がふざけていると、真面目な場にそぐわないというのが、論争で言われていたことだと思います。俳句なんだから別にふざけてもいいんですが、場と気分を合わせられないとトラブルになるというのは、あれから時間を経て思うことです。真面目な場にふざけて行っても、ふざけた場に真面目に行ってもトラブルになると思います。俳句に正解がないというくらいなので、おそらく俳壇には共通の規範意識がなく、紛争解決の能力が乏しいと思うので、場に帰属するときは、自分の気分と合った場の気分をよく吟味しないといけないと思います。その時、俳号は自分の仲間を見つけるための名刺代わりになるでしょう。
 「俳句を何故詠むのか〜或る無名俳人の場合」は自己の履歴を振り返りながら、何故俳句を続けているのか考えてみたという体裁の記事です。今読むと、自己紹介のような記事ですね。記事を書いてから2年経ちましたが、今の気分はというと、惰性で俳句を詠んでいますが、日記であったり、時代の記録であったり、体調管理であったりというくらいの立ち位置でしょうか。続けるだけの強い動機があるわけでもないし、やめるほどでもない感じです。俳句は理屈を言うでなし、日常の記録にちょうど良いのです。

これからの季語について

 夏頃は「季語つれづれ〜感情語の魔力」や「空調服かファンジャケットか〜新季語を作りたい」という記事が読まれることが多かったです。これらの記事では、「暑さ」を核として、季語に関わる話題や新しい語彙の享受について考えていきました。
 また、今年書いた「俳句鑑賞:デパートの夢」では、デパートに対する感情の移り変わりを追いかけました。時代が経つにつれて、厳かな消費行動が楽しいものと変わり、楽しいことが続くと、消費行動に対する憎悪が強くなっていくようになっていって、今は憎悪の時代であるように読みました。
 感情が強く、憎しみを伴った時代背景の中で、新しい言葉を詩に取り込むのは難しいと思います。流行語は「より強い感情」を求めていて、「幸せ」に対して、不安を通り越して憎悪の感情を抱いていることが、言葉の中心にあると考えられます。憎悪の感情を抱いたまま詩の言葉を操るという不思議な時代ですが、当然、詩の心を解する人ならば、そうした言葉は敬遠していて、新語が詩に入りにくくなっていると思います。言葉単体から強い感動を感じられるような言葉は、現代の言葉には少なく、新しい季語というものがあまり作られないのも納得です。むしろ、歳時記による新語の権威化は慎重になったほうがいいかもしれません。何にしても、新語の使用は結構気持ちが揺れます……。
 憎悪を頑張って排除してもなお、言葉の強さは、俳句作者の気分として残っていきます。今年は、心なしか「極暑」という言葉をあまり見なかった気がします。来年再来年、5年後、10年後と今年よりも強い季節感を感じる予想が立っているのか、今年の暑さを極みと言わないことがなんとなく共有されているように思います。今年はまだまだマシだぞ、もっときつい時が来ると。
 多くの人の同意の取れそうなところを言えば、季語は、強い言葉を使うことからは避けられないと思います。それは従来言われてきた情緒の強弱ではなく、エネルギーの強弱であり、一句全体のエネルギーも、より強いエネルギーを持ったものが好まれていくのではないでしょうか。もう少し説明すると、強弱というのは、俳句の入門書を読み返すと、情緒の強弱のバランスを大事にと書かれているものがあります。それに従えば、季語の情緒の強さ、切字の強弱など、読者の読感を調整するバランス感覚が作者には求められていると考えられます。しかし、これからは、このような技術的な強弱だけではなく、作句の動機としての感情や意志が強い俳句が、基準になるのではないかと思います。作っているうちにはわからないけれども、句会などで選句するときに、強いエネルギーに惹かれることが少しずつ増えていき、ついには自己の作風にも取り入れるようになっていくなんてことを想像します。

俳句のジャンル分けについて

 「俳句と教育」という『俳句』誌の特集(2024年4月号)、面白く読んだのですが、雑誌の売り上げは良くなかったとYouTubeで見聞きしました。僕の好みは、現在の商業活動的には合理的ではないということを悟りましたが、僕の仕事は、お金以上の価値があると信じることにします。
 特集の中の記事では、教育現場で作られる俳句に、一ジャンルとしての特徴が出るほど強い傾向が見られることを仄めかす記述がありながら、ジャンル分けを断言できなかったように読みました。それは、俳句史の通史を持論として持つことへのためらいがあったのだろうと思います。若手俳人中心の企画で、平成以降の俳句史を再検討するようですが、年長者の書いた通史本によって、自分たちの足跡がないことにされていることへの反発とも取れます。
 世の中の流れとしては、一般書の通史本が流行した年のように思います。僕の関心の中では、若い著者による短歌史や邦楽通史の本が上梓されています。通史における批判は、批判者の関心の範囲で、個別的な批判が飛ぶことが多いと思います。たしかに、自分の関心のある部分だけを細かく見れば、粗雑なところもあるように思います。しかし、考えてみれば、通史の対象を全体から見た上での批判というのは、あまりやらない気がします。この間読んだ記事によると、ドナルド・キーン博士の『日本文学史』の膨大な仕事に対する批判や感想というのはあまり見られないそうです。言われてみれば、日本文学を勉強していても、通史を話題にしたことはなかったように思います。短歌なら短歌、邦楽なら邦楽で、通史を通して見えるものは何かという議論への関心は、あまり多くないように思います。上述の若い著者たちの本も、究極の本ではないという批判より、通史の一冊目として、時代を大掴みにして研究対象を描けているのかという観点で見る方が、フェアなのかなと思います。その時、はじめて我々が共有すべき通史がわかるのではないかと思います。
 俳句に話を戻すと、俳句の方では、特定のジャンルの研究本やアンソロジー、『俳句』誌の俳壇史、特定の時代(昭和、戦後など)の俳句史など、他のジャンルより俳句史に対するアプローチはたくさんあります。しかし、多くの俳人が合意形成できていないようにも思います。一つ言われているのは、私史の範囲を脱さないという批判です。もちろん、私史の要素が強くても、価値がないわけではありません。通史ではなく、オーラルヒストリーとしての価値があるというだけのことで、私史だって必要なことなのです。結局、通史を編むことを未来の人間に先送りされているようにも思うのですが、託された若い人たちにしてみれば、なかなか大変な仕事であると思います。
 通史を編むためには、時代の現象を追いかけるだけではなく、その時代の気分を読み抜くことが大事になっていきます。現代という時代を捉えるために必要な鍵は、現象とその奥にある気分です。現象を捉えることは、若い著者でもできることで、そんなに難しいことではないのですが、現象の奥の気分を探ることはなかなかに難しいことで、少なくとも、先行研究として通史本を読んでいても、現代がどんな時代かを知ることはなかなか大変ではないかと思います。ただ、ありがたいことにまとまった史料は多いので、現象については、一から考察材料を探すよりは楽だと思います。考証のためのアプローチも、通史本を読んでみると色々なアプローチがあって刺激になります。作品の鑑賞から始めるのも面白いですね。こっそりやってみようかな。
 ランキングに関わるところでいえば、「「新俳句」の研究」が伸びてきています。「新俳句」の受賞歴から、どうやって「新俳句」を作り、「新俳句」にどのような特徴があるかを考察した記事になっています。
 この記事で「新俳句」を一つのジャンルに落とし込んだわけですが、このほかも含めて、ジャンル分けした形式を振り返ると、新奇性の発掘のために、お手本となる表現形式が俳句創作の下敷きになっていることを発見します。文学思想や表現形式、例えば、短歌や近代詩、小説や川柳などから着想を得たということは半ば常識のように語られており、俳句の「新しさ」の発掘は、既に世に広がっている表現形式を借りて行われていることに気付かされます。僕が勝手に定義しているものだと、「教育俳句」は散文や川柳と、「新俳句」は川柳と接近していて、外部の文脈の選択によって、ジャンルが分けられているように見えます。現代俳句の特徴として、俳句形式の必然性はあまりなく、外部の文脈を拝借しているだけではないか。新しさを求めるうちに、俳句の根源がわからなくなっているのではないか……。思いつきの段階ですが、こんなことを考えてみました。

年末のごあいさつ

 年末企画も年々字数が増えて、ちょっと硬派な企画になってきましたね。今回は、準備にかなりの日数をかけています。
 今年は、短歌が読めるようになりました。今までは、短歌の字面を読んでもイメージが浮かび上がらなかったのですが、『滑走路』を読んだり、生涯学習で近代以前の和歌の多読をしたりしているうちに、和歌のイメージが湧き上がるようになりました。
 同じような症状の人へのヒントとして、多読の方法を共有します。といっても、意味を取って音読の繰り返しですが、意味を取るときに精読をして、歌い方も教師の真似をして、音楽として身体に覚えこませました。このように、意味のパートと歌いのパートの質量を上げたら、歌のイメージが浮かぶようになりました。国語の文章を平板に読むというより、音楽で歌詞を読み込んだ後に歌を歌う感覚に近く、歌詞を読み込んで歌唱するというのは、歌謡曲であっても普段やっている人はいるのではないでしょうか。歌は肉体で読むものなのかもしれません。多読は、題材を探すこと、読む時間を取ることを考えたら、独学じゃできなかったです。生涯学習ありがたいです。
 俳句周りだと、所属誌から役割を振られて、選句をするという経験をしました。選句について色々書いてきたので、「べき」論が自分に返ってきて、プレッシャーから選句の仕事が始まりました。一度作業を始めてしまえば、プレッシャーも感じなくなるんですけど、なかなか得難い体験でした。
 本年も足をお運びいただいてありがとうございました。みなさまにおかれましても、良いお年をお迎えください。

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