新宗教とNew Religionsの無関係な関係〜分岐点としての1978年〜
はじめに
新興宗教という表現には蔑視的なニュアンスがあるので新宗教と言うべきだ。皆さんはこんな意見を耳にしたことがあるでしょうか。
もしかすると、そういった主張があること自体たった今知ったという人もいるかもしれません。実際、新興宗教という言葉は現在でも普通に使われていて、たまに大手の新聞で見かけることもあります。私自身、少し前までこの言葉の廃止を求める人たちの存在を知りませんでしたし、これまでの人生を振り返ってみても、どちらの語が使われているのかあまり気にしたことがありませんでした。
新興宗教という言葉には不当な蔑視が含まれているので新宗教と言うべきだと最初に主張したのは、新日本宗教団体連合会(以下、新宗連)だと言われています。新宗連は1951年に発足した組織ですが、『新宗教辞典』(弘文堂、1990年、2頁)によると、新興宗教という呼称に対抗する意図で新宗教という語を使用し始めたのが文献で確認できるのは、1960年以降だとされています。さらに、研究者やジャーナリストが自分たちのそれまでの軽蔑的な態度を反省し、もっぱら新宗教という語を用いるようになったのは1970年代の中頃からだったそうです。なお、該当部分を執筆しているのは、日本の新宗教研究を代表する学者の一人である島薗進です。
しかし、日本の学術分野において新宗教という言葉が定着したのが1970年代中盤だったという証言が確かだとしても、この時期以降、マスメディアでも新興宗教に代わって新宗教が使われるようになったとは必ずしも言えないのは、先ほど述べたとおりです。ところが一方、国内では学問の世界以外にはいまひとつ浸透しなかったこの新宗教という言葉が、意外なところへ伝播して影響を及ぼしていたという話があります。
海外に新宗教(new religions)または新宗教運動(new religious movements、NRMs)と呼ばれる対象を研究する学問領域があります。実はこの分野で用いられているnew religionsという表現は、日本語の新宗教(shin shukyo)に由来するものだというのです。2004年刊行の『オックスフォード新宗教運動ハンドブック』で、編者のジェームズ・ルイスは概要で以下のように述べています。
As a field of scholarly endeavor, NRM studies actually emerged several decades earlier in Japan in the wake of the explosion of religious innovation following the Second World War. Even the name "new religions" is a direct translation of the expression shin shukyo that Japanese sociologists coined to refer to this phenomenon.
実のところ学問分野としての新宗教研究は、第二次世界大戦後に起きた宗教的イノベーションの爆発的な拡がりの結果として、数十年前の日本で出現しました。「新宗教」(new religions)という呼び名自体、日本の社会学者たちがこの現象を指すために作った「shin shukyo」という表現の直訳です。
現在の欧米における新宗教研究(New Religions Studies、NRS)は、社会的に敵視されたり批判されたりする宗教団体や宗教運動を主な研究対象としていることで知られています。この分野の大多数の研究者は、いわゆる「カルト」とされる団体についても、偏見を捨てて客観的に調査・研究を行っていると自負する人々です。
したがって、「カルト」という否定的な言葉から新宗教(new religions)という価値中立的な言葉に言いかえる行為は、研究者たちによる自分たちの研究姿勢の表明という一面もあるわけです。他方で、新宗教研究者たち自身が客観と中立を標榜していても、「カルト教団」に反対する立場の人々からは対立陣営の一部とみなされ、「カルト擁護者(cult apologists)」と呼ばれることも少なくありません。
さて、再度『新宗教辞典』の記述に戻ると、日本における新宗教という言葉は新興宗教の言いかえとして新宗連により提案され、1970年代中頃に学術的な場で定着したとされていました。これらの事実から推測するならば、欧米で「カルト」に代わる表現として新宗教(new religions)が用いられた背景には、新興宗教という語に不当な蔑視が含まれるという当事者団体の訴えを聞き入れ、より中立的な術語に置き換えた日本の研究者をお手本にしようという思いが込められていた、こんなストーリーを描けそうな気がしてきます。
ところが少し調べてみると、「新宗教」と「new religions」という言葉にまつわる日本と海外との間のやり取りは、それほど単純でも一方通行な関係でもありませんでした。むしろそれは、相互に影響を与え合いつつもすれ違いやボタンの掛け違いの連続だったように見えます。しかも、時が経つにつれてその齟齬は次第に大きくなり、今では両者はほとんど別物になってしまったかのようです。
本稿の目的は、「新宗教」と「new religions」という、一見すると同じ意味としか思えない二つの言葉が辿ってきた歴史に注目し、特に日米の学術分野において、それらがどのように使われてきたのか、大まかな見取り図を描くことです。難しい課題なのは間違いないですが、現下の政治と宗教を巡る議論の枠組みそのものを再考するために、これはおそらく欠かすことのできない作業です。具体的な論点を一つ挙げると、旧統一教会の解散命令請求について意見を表明している国内外の新宗教研究者の態度の違いが、一体何に由来しているのかという疑問への答えも、この調査の過程で自ずと明らかになってくるはずです。
ではまず、日本の新宗教(shin shukyo)の情報が海外へと伝わった経緯から見ていきましょう。ことの発端は占領統治時代の日本で行われた宗教政策にあります。
◆神々のラッシュアワーとnew religions
1945年、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、その後ただちにアメリカを中心とした連合国による占領統治が開始されました。日本の民主化を目的として、GHQは宗教の自由を重視した政策を打ち出し、その一環として同年12月に宗教法人令が公布・施行されます。これによって戦前の宗教団体法が廃止され、宗教法人の設立への規制が大幅に緩和されることとなり、多くの宗教団体が宗教法人として登記されました。
この時期に大挙して設立された宗教法人の大半は、戦前から何らかの形で活動していた宗教団体が、法制度の変化に合わせて独立した法人になったものです。しかし、宗教法人の急増やそのうちの一部教団の急速な成長といった現象は、海外からは民主化した日本が享受する宗教的自由の象徴として、好奇と是認の入り混じったまなざしで見られることがありました。このような視点の格好の例が、とある書物に示されています。
一九四五年まで、日本国民は全体主義の重圧下で長い間苦しみあえいでいた。その期間、宗教団体は、たいてい弾圧されるか、思想統制機関として再編成されていた。だから、終戦後、新生日本の基本的原則の一つとして、宗教の完全な自由が保障されると、禁止されていた宗教や、新しい無数の宗教運動が、独立した教団となったり、新しい「予言者」が自由に立教したりできる道が開けた。この時期を「神々のラッシュアワー」と規定することは、日本史上初めての宗教的自由放任政策に対する熱狂的な反応を、うまく表現している。
『神々のラッシュアワー』という有名なタイトルを持つこの本は、アメリカの宗教学者であるH.N.マックファーランドが自身の二度にわたる日本滞在経験をもとに執筆し、1967年に出版されました。引用した部分のような記述は、圧政に苦しんでいた日本人に信教の自由を「贈呈」した国の市民としての誇りと自信を、アメリカの読者に抱かせたことでしょう。
このような関心を背景に、1960年代には日本の宗教に関する情報が続々と海外に発信されていました。GHQ宗教課に所属していたウィリアム・ウッダードが設立に関与した国際宗教研究所の紀要『Contemporary Religions in Japan』の刊行が1960年に始まり、1963年にはオフナーとファン・ストラーレンによる共著『Modern Japanese religions』や、ハリー・トムセンの著作『The new religions of Japan』が相次いで出版されます。
では、そうした情報源を通じてこの時期に海外へと伝わった「new religions」という言葉が、『オックスフォード新宗教運動ハンドブック』にあったように「shin syukyou」の直訳だったのかというと、そう断言できない錯綜した状況がこの時期にはありました。具体的な事例から見てみましょう。
『神々のラッシュアワー』は、1967年に原書が刊行されてからわずか二年後の1969年に日本語に翻訳され出版されています。この偶然の成り行きによって、原書と日本語版とを照らし合わせると、この時期の訳語の対応関係について検証することが可能なのです。
まず、本書の元のタイトルは『The Rush Hour of the Gods: A Study of the New Religious Movements in Japan』ですが、日本語版の書名は『神々のラッシュアワー:日本の新宗教運動』となっています。ところが、本文中では「new religion」も「new religious movement」も一貫して「新興宗教」と訳されているのです。なぜ書名にだけ「新宗教運動」という言葉が使われるようになったのか詳しい事情は分かりませんが、未だ用語が定まっていない当時の状況がうかがい知れるでしょう。
しかし、日本語版はタイトルにこそ「新宗教運動」という単語が使用されていますが、内容を読む限り、本文中で「新興宗教」という訳語が使用されているのは翻訳者のミスではなく、著者の意図を正確に反映した結果であることが理解できます。
というのも本書は、「new religions」は「日本でもやっかいで不正確な言葉となってきている」と断りつつも、この術語は日本語から文字通り訳せば「新たに勃興した宗教(newly arisen religions)」になると述べていて、「新興宗教」に相当する言葉であることを明示しているのです〈28頁〉。さらにマックファーランドは、「新興宗教」という言葉が軽蔑的なニュアンスを含むこと、新宗連が別の呼称を提案していることについても説明しますが、それにもかかわらず「新宗教(shin shukyo)」という呼び方にあまり気乗りしない様子を見せます。それは次のような記述にあからさまにあらわれています。
文字通り「新しい宗教」を意味している新宗教(引用者注:shin shūkyō)という別の術語が、いま、われわれが論じようとしている一〇〇以上の教団の代表機関である新宗連によって使われてきている。しかしながら、一般に使用されている名称の悪い意味合いを打ち消すために考案されたものであり、どちらを使うかは、学問上の問題にすぎない。
引用部分の最後は「どちらを使うかは、学問上の問題にすぎない」と訳されていますが、元の文章が以下のとおりであることを考えると、ここは「提案された代替案は学問上の問題をさらに複雑に悪化させるだけだ」くらいに訳してもいいでしょう。
This, however, is primarily an effort to counteract the harmful effects of the common appellation, and the alternative offered only compounds the problem of scholarship.
この一文からも分かるとおり、この本を書いた時のマックファーランドは「新宗教(shin shukyo)」という呼び名をあまり歓迎していないようです。
最終的にマックファーランドは、自分は本書で「New Religions」を「現代の大衆の宗教運動(contemporary popular religious movements)」という意味で用いると宣言するのですが、いずれにせよ本書での「new religions」という言葉が、「新宗教(shin syukyou)」の直訳ではないことは確認できたでしょう。
他にも1964年には、新宗連の初代事務局長だった大石秀典による、「新宗教」を英語で呼ぶ場合の表現は「new religions」よりも「new religious sects」や「new sects」の方が正確なのではないかという発言もありました(参考文献のハリー・トムセンの本の書評を参照)。これらの資料は、この時期に海外へ伝わった「new religions」という表現が、必ずしも特定の日本語と明確に対応していなかったことを示すものだと考えられます。
さてその後、書籍や雑誌などを通じて日本から北米に持ち込まれた「new religions」という言葉は、時を置かずしてアメリカ国内で起きていた目新しい宗教現象を指すために使われるようになります。『オックスフォード新宗教運動ハンドブック』でイントロダクションの章を担当したゴードン・メルトンによれば、1960年代後半、サンフランシスコ湾岸地域でカウンター・カルチャーを土壌とした非キリスト教的な宗教グループが次々と誕生した際、それらを指す言葉として「new religions」が用いられました。こうした宗教運動の理解者だった哲学者ジェイコブ・ニードルマンは1970年に『The New Religions』を著し、新興の宗教グループのいくつかを好意的に紹介します。その後、この呼称は専門家にも受け入れられ、1976年にC.Y.グロックとR.N.ベラーによる先駆的な研究アンソロジー『The New Religious Consciousness』が刊行され、学術的にも定着していくことになりました。
以上が、1970年代中頃までにアメリカで「new religions」という言葉が広まった経緯の概要です。あらためて確認すると、アメリカで「new religions」が西海岸で台頭したオルタナティブな宗教運動を指す言葉として根付きつつあった頃、まだ日本では「新宗教」という言葉は学術分野においてすら普及していません。
だとすると、ジェームズ・ルイスが『オックスフォード新宗教運動ハンドブック』で述べた「new religions」は日本の社会学者たちが作った「shin shukyo」という名詞の直訳だという説明は、不正確だと言わざるを得ないでしょう。では、なぜそのような誤解が生じたのか。普通に考えれば、この後、日本で「新宗教」という言葉が「新興宗教」になりかわって優勢になっていく内に、訳語の対応関係も最初からそうだったと勘違いされたというのが一番もっともらしい解釈に思われます。
けれども、実のところ、日本の学術界で「新宗教」という用語が使われるようになる動きは、それに先んじて海外に「new religions」という用語が伝わっていたことと決して無関係ではありませんでした。『新宗教辞典』(弘文堂、1990年、2頁)の記述にも、「新興宗教」に代わって「新宗教」という語が有力な用語として定着した変化には、「海外の宗教運動研究からの影響も作用している面がある」と書かれています。
確かに、学術用語としての価値中立性は関心事のひとつでしたが、1970年代を通じて起きたことは、単に「新興宗教」という表現の蔑視的なニュアンスを避けるための言いかえにとどまるものではありません。むしろ「新宗教」という新たな学術用語が確立していった過程とみなす方が妥当でしょう。
この過程において、海外に「new religions」と呼ばれる一連の宗教運動が存在したことがどのような影響を及ぼしたのか理解するには、「新宗教」という用語の普及に重要な役割を果たした、宗教社会学研究会という若手の研究者グループについて触れる必要があります。
◆宗教社会学研究会と三人の先行研究者たち
1975年11月8日、元号で言えば昭和50年代の始まりにあたる節目の年に、東京で宗教社会学研究会(以下、宗社研)が発足しました。創立の中心となったのは東京大学の柳川啓一ゼミで宗教学を専攻していた大学院生と、東京教育大学の森岡清美ゼミで社会学を学んでいた大学院生でしたが、この研究会には他にも、宗教と社会に関心を抱く幅広い分野の研究者の卵が集っていました。
結成の理念として若手研究者の発表と交流の場たらんとする志を立てた宗社研は、当時まだ二十代後半だった団塊の世代を中心に活動を開始しましたが、日本の学術界に新宗教という言葉が定着した理由として、この研究会の果たした役割が大きかったことは多くの人々が一致して認めるところです。冒頭で参照した『新宗教辞典』で、新宗教という言葉が用いられだしたのが、宗社研の創立時期と一致する1970年代の中ごろだったと書かれていたことを思い出してください。あの記述を書いた島薗進も、宗社研に参加していた研究者の一人です。
宗社研は新宗教の研究者だけの集まりでは決してありませんでしたが、この分野への貢献が目覚ましかったことから、1990年に解散するまでに「新宗教研究の宗社研」というあだ名がつくほどでした。自身も宗社研の一員だった宗教学者の井上順孝は、2019年の論考の中で次のように述べています。
宗社研グループの研究においては、民衆宗教、新興宗教よりも新宗教という用語が、より広く用いられるようになった。それまではマスメディアでは新興宗教という言い方の方が一般的であった。当時マスメディアが新興宗教という言葉を使うときには、ときとして蔑視するかのようなニュアンスが含まれていることが多かった。また民衆宗教というのはやや対象の範囲を狭めるものであった。近代に形成された多くの新しい教団を歴史的宗教と並べて一つの特徴ある宗教現象として位置づけていくという姿勢にとっては、新宗教という用語が包括的で、かつ中立的に感じられたというのが、この語が用いられた大きな理由である。
当時をよく知る井上の証言で注目すべき点は二つあります。一つ目は、宗社研以前の時代には、新興宗教と民衆宗教という用語を使った二種類の研究の潮流が存在していたこと。二つ目は、新宗教という用語は単に蔑視を避けるためだけのものではなく、これら新興宗教と民衆宗教という従来の術語を包括する概念として構想されたことです。
まず一つ目のポイントとして、それぞれ新興宗教と民衆宗教という用語を使った二通りの研究の視点について、井上は前の段落で次のように説明しています。
一九六〇年代以降は研究もしだいに本格化していくが、そこには村上重良、高木宏夫らの先駆的研究があり、以後の研究に大きな影響を与えた。主として歴史学の方法論に依拠した村上重良が民衆宗教という用語をよく用い、社会学の方法論に近かった高木が新興宗教という用語を用いたことは興味深い点である。村上はとりわけ幕末維新期に形成された新宗教に着目し、国家神道に対する民衆主導の宗教として新宗教を見ていこうとする姿勢があった。高木は戦後急成長した教団に注目し、社会運動との比較で新しい宗教運動の短期間の巨大化のメカニズムを探ろうとした。 何が広範な影響力の原動力となったかの組織論に強い関心をもったわけである。
ここに述べられているように、新興宗教という語は広く一般的に使われていた一方で、戦後のある時期まで正式な学術用語としても使用されていました。そして、高木宏夫に代表される新興宗教研究とは、戦後急成長を遂げた宗教団体の発展メカニズムの解明に狙いを定めたものでした。特に高木は、革新派の進歩的知識人としての立場から、教団の急速な成長を分析し、そこから社会運動へのヒントを得ようとする姿勢があったと言われています。
ちなみに、『神々のラッシュアワー』の著者であるマックファーランドは、新興宗教というテクニカルタームに関する知識を高木宏夫との個人的な会話から得ており(原書の第一章注6参照)、もしかすると新宗教という言葉への消極的な態度には、そのことが影響しているかもしれません。
新興宗教が一般にも普及していた言葉であるのに対し、民衆宗教は宗教学者の村上重良が確立した学術用語であり、幕末維新期に創始されたいくつかの宗教運動のことを指します。一部の分野では現役で用いられている専門用語でもありますし、最先端の研究には該当しないでしょうが、少なくとも1958年に出版された村上の最初の著作『近代民衆宗教史の研究』が提示した民衆宗教とは、マルクス主義歴史学の強い影響のもとに構想された概念でした。
講座派マルクス主義歴史学者の服部之総の門人であった村上は、明治維新を市民革命とみなさない点で講座派と認識を同じくしており(「民衆にとって裏切られた革命であった明治維新」〈213頁〉)、近代以降に持ち越されることとなった封建制の残滓である天皇制と、その宗教的表現である国家神道と対決する前進性を民衆宗教に見いだします。
つまり、村上の民衆宗教研究は変革の主体としての民衆に「近代」を読み込んだものであり、彼が用いた「近代民衆宗教」という語も革新的な意味合いが込められたものでした。村上は豊富な史料に目を通していて、必ずしも理論偏重ではないという声もありますが、それでも彼の議論がマルクス・レーニン主義の発展段階論に基づいていることは、新興宗教を「日本の資本主義が帝国主義段階に入って以後、成立した諸教団」〈193頁〉と定義していることに如実にあらわれています。
村上曰く、新興宗教は呪術的な現世利益信仰と、観念の世界での現実の矛盾からの逃避が特徴だといいます。近世から近代への移行期に創始された民衆宗教の前進性・開明性を賞賛する一方で、それより少し後の時代に登場した新興宗教の反動性を強調するのは、帝国主義(独占資本主義)段階においては植民地から搾取した富を分配することにより、労働者階級が支配階級に抱き込まれて体制内化するという理論の変奏として解釈できるかもしれません。
早足で見てきましたが、このように、民衆宗教と新興宗教という用語を用いた研究はそれぞれの領域に固有の問題関心に基づいて進められていました。井上の証言で注目すべき二つ目のポイントとして、新宗教という言葉は新興宗教と民衆宗教という従来の術語を包括する概念として構想されたことを述べましたが、それはつまり、従来の文脈とは異なる新たな視点の登場により、第三の用語が必要となったことを意味しています。その新しい研究の展望こそ、アメリカの西海岸に出現したNew Religionsとの国際的な比較研究でした。
宗社研の中心メンバーだった西山茂は1990年の宗社研解散シンポジウムで行った講演で、「新宗教研究の宗社研」誕生の背景に関して次のように述べています。かなり長めに引用しますが、内容を理解するにはさらなる説明が必要だと思われるので、後ですぐに補足をします。
すでに述べましたように、宗社研は、新宗教研究のみの宗社研ではありませんでしたが、それでも新宗教研究の分野ではひときわ目立った存在であったことはたしかです。〔中略〕では、どのような理解と背景によって「新宗教研究の宗社研」が誕生したのでしょうか。宗社研が東大の柳川ゼミと東京教育大の森岡ゼミの各大学院生を中心に結成されたことについては先ほど触れましたが、宗社研結成直前の柳川・森岡の両先生は、安斎伸・村上重良・宗像巌・森村信子・井門富二夫の各先生とともに、当時、成城大学におられた故・堀一郎先生を中心とする「宗教と社会変動研究所」日本研究委員会の共同研究(課題名は「日本における新宗教の発展と社会変動」)に携わっておられました。〔中略〕そして、宗社研のメンバーでは、中牧氏が常呂調査(1970年以降)に、そして西山が湯野浜調査にそれぞれ参加し、1974年秋にハワイ大学で行われた研究発表会(正式名称は「変動する社会における宗教意識に関する会議」)にも、両名が随行しました。ここでの発表を新宗教に限っていえば、この会議では、日本側の柳川・森岡両先生が常呂と湯野浜の調査結果を報告したほか、村上重良先生が日本の新宗教の成立と展開について報告しました。また、アメリカ側のカリフォルニア大学のR・N・ベラー先生やC・Y・グロック先生なども、サンフランシスコ湾岸地域におけるさまざまな新宗教運動について報告しました。要するに、この会議では新宗教の台頭という当時の日米両国に共通の現実を反映して、日米とも新宗教を主要なテーマに取り上げたわけです。この会議の成果は、やがて、日本側では柳川先生と安斎先生を編者とした『宗教と社会変動』(東京大学出版会、1979年)として、アメリカ側ではグロック先生とベラー先生を編者としたThe New Religious Consciousness(Univ. of California Press, 1976)として、それぞれ出版されました。
多くの人名や固有名詞が出てくるので、若干の整理が必要だと思います。一連のプロジェクトの報告書という性格もある『宗教と社会変動』(東京大学出版会、1979年)の記述と、森村信子による『The New Religious Consciousness』の書評論文を基に、顛末をまとめてみましょう。
前節で「new religions」という言葉がアメリカに広まった経緯を説明する際、1976年の『The New Religious Consciousness』の出版を一つの区切りとしましたが、この学術アンソロジーはもともと、ハワイにある国際研究機関「宗教と社会変動研究所」が、社会学者C.Y.グロックとR.N.ベラーに委嘱した「アメリカ青年層の宗教意識」という調査の成果をまとめたものでした。この調査は1970年に開始され、サンフランシスコ湾岸地域の若者に見られる新しい宗教意識や、その地域で台頭していた宗教運動を関心の対象にしていました。また、同研究所はこのプロジェクトと並行して、「日本における新宗教の発展と社会変動」というテーマで日本の研究者に調査を依頼し、日米の調査結果を比較する国際的な学術交流を企画しました。
日本側でこの調査の責任者を引き受けたのが、1971年に東京大学を定年退官し、成城大学へと移った宗教学者の堀一郎です。このころ堀は、文化庁が日本の宗教文化を英語で紹介するために刊行した『Japanese Religion: A Survey by the Agency for Cultural Affairs』(講談社インターナショナル、1972年)の筆頭編者を務めるなど、日本と海外の宗教研究をつなぐ活動に力を注いでいました。「宗教と社会変動研究所」のプロジェクトにも日本委員会の委員長として精力的に取り組んでいた堀でしたが、1974年に調査が終了し、いよいよハワイ大学で国際会議が開催されるという時に病に倒れ、亡くなります。そのため、委員長の任を柳川啓一が代行し、さらに後に宗社研のメンバーとなる西山茂と中牧弘允も、この国際会議に参加することになったといいます。
このように、日本にとってはやや受け身なきっかけからはじまった国際的な比較研究ですが、こうした一連の動向が1970年代に「新宗教」という用語の定着を促した「海外の宗教運動研究からの影響」であることは言を俟たないでしょう。ただし、ここで重要な点は、このような国際共同プロジェクトが採用を促進した「新宗教」とは単に「新興宗教」という語を言いかえたものではなく、「新興宗教」と「民衆宗教」という従来の術語を包括する概念としての「新宗教」だったことです。
この点が顕著に表れているのは、『宗教と社会変動』に「新宗教の成立と展開」という題目で収録されている村上重良の論文です。これは1974年にハワイの国際会議で行った「History of New Religion in Japan」という発表を元にしたものですが、村上はこの論文で新宗教を次のように定義しています。
新宗教は、現代の日本社会における最も有力で行動的な宗教勢力である。新宗教とは、ほんらい成立が相対的に新しい宗教をいうことばであるが、ここでは、幕末維新期から現代、すなわち一九世紀なかばから二〇世紀後半にかけて、新たに成立し展開した新興の諸宗教をよぶこととする。
今しがた述べたとおり、民衆宗教という用語の創唱者である村上重良は、日本の資本主義が帝国主義段階になってから成立した宗教のことを新興宗教と呼び、成立した時代によって両者を区別していました。ですから、もしも単なる言いかえにすぎないのであれば、民衆宗教の時代の後に新宗教の時代が到来したという歴史叙述になるはずです。しかしここでは、幕末維新期から現代にかけて成立した宗教を一括して新宗教と呼んでいます。
状況から見て、村上の用語法の変化は、日本の新宗教と海外のnew religionsを比較研究する視点を取り入れた結果と考えられます。もっと言うと、それは村上個人の考えが変わったことのみをあらわすのではなく、近代化を共通項として異質な宗教文化同士を相互比較しようという、「宗教と社会変動」プロジェクトに集まった研究者に共有された意識を反映したものだったでしょう。
『宗教と社会変動』の第三部では、「日米両国における近代化と宗教——ハワイ国際会議の印象から」というタイトルで、宗像巌がハワイ国際会議の様子と討議の概要を報告しています。この中で、宗像は次のように述べています。
つぎに、将来の国際的な宗教文化の比較研究に関連して提起された問題について、簡単に触れておこう。宗教文化の体質が、日米間において異なる事実は、相互の比較研究を不可能にするのではなく、むしろ、逆に、異質な宗教文化の相互比較という、学問的にきわめて挑戦的な課題を提起してくる。日米の宗教文化の相互比較を行う場合、理論的な共通項と考えられるものは "近代化"である。
国際的な比較研究に取り組むにあたって、「近代化」という論点が注目されるようになった詳細な経緯については慎重な検討が求められます。しかし、こうした研究の方向性が、村上が築き上げた近代民衆宗教研究の成果への新たな関心を呼び起こしたと考えるのは自然なことでしょう。これは、「新宗教」の範囲を幕末維新期以降に成立した宗教に定義するという、単なる成立時期の問題にとどまらず、村上が「民衆宗教」に見出した近代性が「新宗教」という概念に織り込まれるようになったことを示すと考えられます。このような意味で、まさしく「新宗教」は「新興宗教」と「民衆宗教」という術語を包括する概念であったと言えるでしょう。
だいぶ回り道をしましたが、以上が宗社研の結成より少し前の先行研究の状況です。もちろん、これ自体かなり簡略化した説明ですが、その上であえて象徴的な言い回しをするならば、高木宏夫が代表する新興宗教研究と、村上重良が創始した民衆宗教研究、それに堀一郎が先導した国際的なnew religionsとの比較研究という三つの潮流が宗社研で合流した結果、新宗教研究という分野が新たに誕生したと言っても過言ではないように思います。
ここまで見てきた「new religions」と「新宗教」という用語の関わり合いの歴史をおさらいすると、まだ日本で「新宗教」という言葉が定着していない時代に海を渡って北米へと伝わった「new religions」は、程なくしてサンフランシスコ湾岸地域の若者を中心とした宗教運動を指すために用いられました。その後、そうしたアメリカの宗教現象との国際比較という研究視角の出現によって、「new religions」の直訳という性質が「新宗教」に見出されることとなり、日本で「新宗教」という言葉が定着する要因のひとつになったとまとめられます。
再び『オックスフォード新宗教運動ハンドブック』の記述を引き合いに出すなら、「new religions」が「shin syukyo」の直訳という説は前後関係から疑わしいものの、「新宗教」が「new religions」の直訳というのは半分くらい当たっていると結論できるかもしれません。
さて、学術用語として確立する段階では間違いなく照応する関係にあったはずの「新宗教」と「new religions」という二つの言葉は、現在ではその用いられ方に多くの違いが見られます。日本の一部の宗教研究者はこの変化にいち早く反応し、遅くとも1990年代には日本の「新宗教」と海外の「new religions」の混同を避けるため、日本のものを「新宗教(new religion)」、海外のものを「新宗教運動(new religious movement)」と呼び分けるような工夫を試していました。ただ、『神々のラッシュアワー』の副題が「A Study of the New Religious Movements in Japan」だったことが示すように、英語話者がそのような使い分けを全くしていなかったこともあって、個別の論文内での用法にとどまったようです。
これとはまた別の表現を用いて、日本の「新宗教」と海外の「new religions」の違いに言及したものとして、2020年に出版された島薗進による著書の以下のような記述があります。
*世界の中の新宗教
欧米では、日本で新新宗教とよばれるようなー九七〇年頃以降に目立つようになった時期の宗教集団を「新宗教」(New Religion) とよぶことが多い。このような捉え方では、統一教会は新宗教の代表ということになる。
この一節は、二つの用語が徐々に乖離していった要因のうち、日本側の「新宗教」という概念の使用法の変化に関する重要な情報を含んでいます。結論から言うと、この変化の核心は、日本の新宗教が全体として特定の特徴を共有するグループとして認識されるようになった点にあります。そしてなにより、研究をそちらの方向へと導く原動力となったのは、「新宗教」という言葉に込められていた国際比較の問題意識に他なりませんでした。
新宗教研究がその誕生時から内包していた国際比較への関心は、海外の宗教文化との対比を通じて、日本の新宗教が全体として共有する特徴とは何かという問いを浮かび上がらせました。宗社研の一部の研究者は、日本の新宗教に共通する特徴について検討した結果、それに当てはまらない宗教を振り分けるための新新宗教という分類を作成しました。新新宗教を新宗教のサブカテゴリーと捉えるならば、一定の対応関係が続いていると見ることもできますが、「旧来の」新宗教の特徴について確固としたイメージが形成されていった延長線上に、欧米でnew religionsと呼ばれる宗教集団はどちらかといえば新新宗教に相当するという説明が存在しています。
日本側の変化の起点となったのは、1978年に東京で開催された国際会議で、宗社研の一部の研究者が日本の新宗教に共通する教えのパターンについて論じた発表です。この同じ年、偶然にも「カルト」という否定的な言葉の言い換えとしてnew religions を使う用語法の確立に影響を与えた重大な事件が発生しています。私の考えでは、この1978年を境に、日本の新宗教研究と欧米のnew religions studiesはそれぞれ異なる方向へと歩みはじめることになりました。
冒頭で疑問として提示した、旧統一教会の解散命令請求をめぐる日本と海外の新宗教研究者の姿勢の違いも、1978年の分岐点からそれぞれが進んできた道筋の結果として説明できるように思います。ではまず次の節で、日本側の「新宗教」が進む方向の出発点となった論考がどのように誕生したのか、その背景について見ていくことにしましょう。
◆国際宗教社会学会とJapanese new religions
1978年の12月27日から29日にかけて、東京で国際宗教社会学会(以下、CISR)の会議が開催されました。CISRは西ヨーロッパの宗教社会学者が中心となっていた国際学会で、日本で会議を開くのはこれが初めてでしたが、日本の組織委員会は会議を充実したものにするため、創立から丸三年を迎えた宗社研に二本の報告を依頼します。これにより、「現代の宗教意識の諸相」をテーマにした第二部会で、宗社研はAグループとBグループに分かれて発表を行うこととなりました。
この会議で、宗社研Aグループとして対馬路人・西山茂・島薗進・白水寛子の四名が行った発表が「The Vitalistic Conception of Salvation in Japanese New Religions: An Aspect of Modern Religious Consciousness」です。日本語にすれば「日本の新宗教における生命主義的救済観——近代の宗教意識の一側面」と題されたこの報告は、日本の新宗教の教えは基本的な構造において同一であり、とりわけ救済観には顕著な類似が見られると論じました。そして、現世を肯定的に捉えるこうした救済観を「生命主義的救済観」と名づけ、新宗教の特徴として説明したのです。
この報告は、日本の「新宗教」が全体として共有する教えの構造を「生命主義的救済観」として提示したことで、研究史に画期をなすものとなりました。しかし、この概念が果たした役割を、特に「新宗教」と「new religions」という用語の関わり合いの歴史上に適切に位置付けるには、論考の内容に入るよりも先に、発表が行われた当時の脈絡を振り返る必要があります。
共同発表者の一人である対馬路人の回想によると、宗社研Aグループは国際会議という場を意識し、外国人出席者を対象としたプレゼンテーションとして日本の新宗教の救済観を主題に選んだといいます。まさしく新宗教という用語に込められた国際比較研究の趣旨を体現したテーマ設定だったと言えるでしょう。他方で、この発表は異なる宗教文化を比較するにとどまらず、西洋宗教社会学の理論に対する日本の研究者からの異論の提起という側面を含んでいました。
宗社研が発表を行うCISR東京会議第二部会の翌日、第三部会ではオックスフォード大学のブライアン・ウィルソンを講演者に迎え、新宗教運動(new religious movements)をテーマとした討論が予定されていました。宗社研Aグループの発表は、この高名な宗教社会学者が提唱した理論への反駁として考えると、その議論の狙いが明確になります。争点になっていたのは「セクトの類型論」と「世俗化論」という二つの理論です。
ブライアン・ウィルソンは、宗教集団の類型の一つであるセクトという概念を用いて同時代の宗教運動を研究し、新宗教研究分野の基礎を築いた学者の一人です。彼はセクトを、その集団がメンバーに提示する救済への道筋に基づいて七つの類型に分類しました。この類型論は、『セクト:その宗教社会学』(池田昭訳、平凡社、1972年)の邦訳を通じて日本にも紹介されましたが、この著書の第十一章は日本の新宗教もセクトとして説明しており、それらのほとんどは操作型(マニピュレーショニスト派)もしくは呪術型(奇跡派)の特徴を有するとされていました。
また、彼は当時の西洋宗教社会学の一大テーマであった世俗化論の代表的な提唱者でもありました。世俗化とは人によって議論の焦点が異なるため一概には言えないのですが、ウィルソンの世俗化論に限って言えば、一部の専門家から宗教衰退論と見なされることもあった内容です。
ウィルソンは宗教が活力を失い衰退し続けているという観点から新宗教運動のことも捉えており、それらの出現を世俗化の証拠とすら考えていました。彼のこうした見解は、1976年に出版された講演録の『Contemporary Transformations of Religion』で明らかにされていて、下に引用する中牧弘允による欧米の研究動向の紹介や、当時進行中だった中野毅の訳業を通じて宗社研にも情報が伝わっていました。
ウィルソンの見解はほぼ次のようにまとめられる(註1)。〔中略〕
欧米の新宗教運動にしても既存の社会秩序とはほとんど無関係に成立し、個人や閉鎖的小集団の「お好みの宗教」と化して、社会的影響力への指向性をもっていない。これらの新宗教運動は一般社会において社会的安定性を欠き、世俗化社会の支配的機関との統合にも積極的でない。したがって新宗教運動は宗教の復興ではなく、むしろ世俗化の確実な証拠に他ならない。
以上のウィルソンの見解をまとめると、日本の新宗教は呪術型か操作型のいずれかに分類され、もし欧米の新宗教運動と同様に見るならば、宗教が衰退している証拠であるということになります。注釈を一つ加えると、こうした結論に至る原因には、この時期のウィルソンが「セクト」や「カルト」、「新宗教運動」といった用語をあまり厳密に使い分けて運用していなかったことも影響していそうです。
ともあれ、宗社研Aグループはこのような見方では日本の新宗教が持つ特徴や救済観を十分に説明しきれていないと考え、キリスト教を基盤とする欧米で生み出された理論に一石を投じることを目的として発表を準備していました。それが言えるのは、こうした意図が会議の場で当人たちの口から語られているからです。
会議の閉幕から二か月後に出版された『CISR東京会議紀要』には討議の概要が収録されており、そのおかげで当日の様子を知ることができます。第二部会については、南山大学文学部助教授のヤン・スィンゲドーがディスカッションの一部始終を克明に記録しています。
1978年12月28日午後、第二部会がはじまると宗社研Aグループを代表して白水寛子が事前に配布したペーパーの内容を手短に紹介しました。それからコメンテーターによる質問と発題者の回答が続きます。このやり取りの中で、この報告が何を目的にしていたのかが明らかにされています。
白水氏は論文の狙いを明らかにしようとして、キリスト教に由来する概念を日本の事情にあてはめようとすることは明らかに誤解を招くこと(例えば、救済と現世利益の対立化)になるので、救済の概念を再定義しようとしたと述べた。ここで研究会 (A)の他の会員も討議に加わり、日本の新宗教の「新しい」側面として、この運動だけが日本を支配している仏教の救済観を突破することができたことを指摘した。さらに日本人が日本の現象を説明しようとするにあたって、あまりにも西洋的概念や方法論を受け入れてきたという批判に本論文を通じて挑戦しようとすることは、特に当研究会の狙いであったと述べ、そのためこそ西洋のセクトと日本の新宗教の相違点に重点を置く必要があると付け加えた。
白水と宗社研Aグループの他の人物の発言を読むと、この発表は、西洋的概念を一方的に受け入れてきたことへの反省に基づき、日本の事情に適合するように救済の概念を再定義する試みであったことがわかります。ここまですでに、日本に適用すると誤解を招く西洋発の概念とされたであろう「セクトの類型論」と「世俗化論」を取り上げましたが、ここでさらに言及されている「救済と現世利益の対立化」とは具体的に何を意味するのでしょうか。その理解の手がかりとして、国際的な比較研究の先駆けである「宗教と社会変動」プロジェクトを総括した宗像巌の次の発言が参考になるかもしれません。
しかし、文化現象、とくに宗教文化現象の理論的解明が試みられる際、他の宗教文化圏の研究の中で設定された概念、理論枠組を、そのままの形で適用することにはきわめて問題が多い。〔中略〕例えば、日本社会の近代化過程でみられる宗教文化の変容を、西欧的視点から、直ちに、“魔術からの解放“過程に他ならないものとみなすことによっては、日本の固有の宗教世界の独得の変容過程が、多くの日本人の心に与えつつある複雑な体験・意味を理解することにはならない。
「魔術からの解放」とは、社会が合理化する過程で呪術的な要素が排除されていくことを指す、マックス・ウェーバーの概念です。ウェーバーの近代化のシナリオでは、合理主義が社会全体に浸透していくことで、この世に直接働きかけるとされる超常の力は徐々にその影響力を失うとされ、「世俗化論」はさらにこの考えを発展させた理論として見ることができます。しかし、日本の近代に成立した教団群の特徴は現世利益を掲げていた点にあったため、このような西洋宗教社会学の説明とは齟齬をきたしていました。「救済と現世利益の対立化」という表現は、こうした西洋宗教社会学の理論と日本の宗教文化との不整合を指しており、宗社研Aグループの発表はこのギャップを埋めようとする試みだったと考えられます。
ところが、研究の狙いが明らかにされた後も続いた討議では、日本人発表者と外国人参加者の議論は次第に平行線をたどるようになったとスィンゲドーは述べています。宗社研Aグループの一員であった対馬路人は、この時の外国人研究者たちの反応について、後に次のように回想しています。
それにもかかわらずCISRでの英語報告は、 特に外国人の研究者の間では、必ずしもポジティブな反応を引き起こしたわけではなかった。 西洋宗教社会学における世俗化をめぐる議論のテーブルの上に乗ろうとせず、日本の特殊性に固着する自閉的議論と受け取られるきらいが強かったように記憶している。
この日の議論が深まらなかった理由について考えることは本稿の本題からはやや逸れますが、宗教学者の石井研士による「新宗教運動と世俗化」という論考は、参考になる視点を提供しています。この文章は1978年のCISR東京会議第二セッションに直接言及しているわけではありませんが、当時の議論を振り返るうえで役立つ示唆に富んでいます。
新宗教運動を世俗化の証拠と見るか、聖なるものの回帰と捉えるか、どちらの立場を取るにしても、「世俗化」という用語の多義性と「新宗教」という用語の曖昧さという二つの要因が、取り組むべき問題を複雑にすると石井は指摘します。特に後者について、「new religions」と呼ばれるものと日本の「新宗教」を混同してしまうと、問題が一層複雑になるのではないかと述べています。
石井の指摘を踏まえると、「新宗教」や「世俗化」という学術用語の意味や範囲の混乱も、議論のすれ違いの要因の一つだったように思われます。これを裏付けるように、第二部会の討論を記録したスィンゲドーは、「第二部会を振り返って見てその感想を述べると、一つの点がきわめて明白に浮かんできたと言えよう。それは実りある討議や意見交換を行なうために共通の言葉が必要であるということにほかならない。」と述べています。前後の文脈を押さえると、このベルギー人の学者の率直な感想は、若き日本人の研究者たちの議論の経験不足を指摘したものとして読めます。しかし、CISR東京会議から十年以上が経過した時点ですらいずれの用語も定義が曖昧だった状況を鑑みれば、円滑な議論が成り立つ条件である用語の共通理解が欠けていた責任は、あながち片方のみに帰せられるものでもなかったでしょう。
以上見てきた通り、「新宗教」という用語に込められた国際的な比較研究への関心に背中を押されるように、宗社研の一部の研究者は西洋と日本の宗教文化の対比を通じて、Japanese new religionsに「生命主義的救済観」という共通の特徴を見いだしました。そして間もなく、「新宗教」という集合の輪郭が明確になった副産物として、それとは異なる「新新宗教」という新たな分類が誕生することとなります。こうして、日本の「新宗教」と欧米の「new religions」が別のものとして認識される下準備が整うことになりました。これが、私が1978年を分岐点と見ている第一の理由です。次の節では、この論考によって「新新宗教」が誕生する過程についてもう少し詳しく追っていきます。
この節の冒頭で述べたように、宗社研Aグループが日本の新宗教に共通する要素として提唱した「生命主義的救済観」は、日本語で発表されるや多くの関心を集め、研究史上の画期をなす存在となりました。それを裏付けるように、発表から約四半世紀が経過した2002年に、「宗教と社会」学会で「生命主義的救済観——今なお有効な視点たりうるか?」と題したワークショップが開催されています。ワークショップで交わされた議論から、この概念が日本の新宗教研究に与えたインパクトについて見ていきましょう。
◆「生命主義的救済観」論文と「新新宗教」の誕生
CISR東京会議の翌年、宗社研Aグループの発表は加筆した上で日本語に翻訳され、岩波書店の雑誌『思想』の1979年11月号に掲載されました。するとこの論文は大きな反響を呼び、数多くの論文で引用されるとともに、新宗教研究の入門書でも大きく紹介されるようになります。2002年の「宗教と社会」学会のワークショップで発表者の一人を務めた弓山達也によれば、この論文は「新宗教研究の緒論文の中でも最も知られたものの一つ」になったといいます。
前節で引用した討議の発言記録にもあったように、この論文は、仏教やキリスト教といった伝統的な宗教が解脱的救済や彼岸での救済を説くのに対し、現世利益に関心を寄せることも救済観の一つのあり方であるとして、救済という概念の再定義を目指したものでした。別の見方をすると、キリスト教を基準にして現世利益を宗教的目的とする宗教を劣ったもの、もしくは遅れたものとするような西洋中心的な考え方に対する批判という側面もあったように思われます。ですが、『思想』に掲載された論文が広範に受け入れられたことにより、元々はアンチテーゼとして提起されたこの説が、それ以降の日本の新宗教研究分野での支配的な見解となりました。
このように後の研究に多大な影響を与えた「生命主義的救済観」論文ですが、共著者の一人として2002年のワークショップに参加した対馬路人は、「仮説のつもりであったのが、結論のように受け取られたことに戸惑いがある」と述べています。さらに、以下に引用するように、ワークショップの趣旨説明においても同様の発言をしているのです。
さて、「生命主義的救済観」論文は、特に『思想』掲載後、新宗教関係の論文としては言及されたり、参照されたりすることの多い論文の一つとなったようである。しかしだからといって、その後その内容についての議論が活発化し、深められていったかというと必ずしもそうはいえないように思われる。言及、参照はされても、それをめぐって本格的な議論が展開されたことは、むしろこれまであまりなかったのではあるまいか。本来、この論文は日本の新宗教について新たな概念、捉え方を提出するという問題提起的、試論的性格の強いものである。しかも、個々の教団に即した各論的分析の十分な積み上げなしに、いきなり全体に網を掛けるような総論を提示するという、やや乱暴な議論の展開となっている。さらに立ち入った議論が展開されて良かったはずであるし、もっと激しい議論の渦を引き起こしても良いはずであった。なぜそうならなかったのであろうか。
繰り返すように、この論文は従来「呪術」として軽視されてきた現世利益への志向を救済観として再評価する、ものの見方を転換するような性格の論考でした。近年では、1970年代にこうした発想が宗教研究に登場したことを、戦後啓蒙思想への批判として立ち現れた民衆思想史や民衆文化論の盛り上がりと並行する同時代的現象と捉える視点も提起されています(参考文献の磯前順一の論考や2022年の日本宗教学会第八十一回大会公開シンポジウム第一部を参照)。したがって、多くの同時代の読者が主張に賛同したために異論が出なかった可能性も考えられますが、ワークショップでの議論をまとめた林淳は、「生命主義的救済観は、検証のないままに結論(定説)化し「事実」と受け止められた」と締めくくっています。
あるいは、1979年当時はまだ、「新宗教」という用語自体が学術分野でも十分に浸透していなかったことも、異論が聞かれなかった一因のように思います。つまり、この論文が「生命主義的救済観を持つものを新宗教とする」という定義を提案しているのか、それとも「新宗教は生命主義的救済観を有する」という分析の報告をしているのか、読者にとって文脈が曖昧だったために議論が起こりにくかったのではないか、というのが私の意見です。
もちろん、たとえ過去に十分な検証が行われていなかったとしても、それが論文の当否そのものを左右するわけではないでしょう。ただ、「生命主義的救済観」論文は、主著者が仮説と見なしていたにもかかわらず、その当人が当惑するほどあっけなく受容されたことは間違いないようです。
こうして、日本の新宗教は生命主義的救済観を有するという認識が広く受け入れられるようになったわけですが、実は当該論文の議論はそれだけに終わらず、十九世紀以来の歴史を持つこの救済観が、時代に伴う社会の変化によって危機に瀕していると論じていました。通常、「生命主義的救済観」論文といえば1979年11月号の『思想』に掲載されたバージョンを指すのが一般的ですが、ここでは『CISR東京会議紀要』に掲載されたバージョンに基づき、生命主義的救済観が直面していたとされる危機の内容を確認しましょう。
著者たちは、生命主義的救済観が直面している今日的な危機として、以下の二点を挙げます。ひとつ目は、生命主義的救済観を基調としていた教団が大教団化する過程で、その教えが希薄化と変容を起こしているということ。ふたつ目は、生命主義的救済観とは異なる新しいタイプの救済観を持つ新宗教が出現し、台頭していることです。特にふたつ目の危機について、当時、日本で勢力を伸ばしていた教団が掲げていた救済観には終末論的根本主義と対抗文化主義の二種類が存在し、前者を代表するのが妙信講、原理運動(旧統一教会)、ものみの塔であり、後者のうち超自然や神秘を重視するものの代表が神霊教、GLA、世界真光文明教団だとされています。
ここで生命主義的救済観にとっての「危機」と表現された六つの教団こそ、最初に「新新宗教」と呼ばれた宗教団体です。この名称は、「日本の新興宗教」を特集した『歴史公論』1979年7月号に掲載された論考で初めて用いられました。その記事を執筆し、「新新宗教」の名付け親となったのが宗社研Aグループの一人であった西山茂です。
「新宗教の現況」と題したこの記事で西山は、以下に引用するように、新宗教と対比させながら、新新宗教には「終末論的な根本主義をかかげるセクト的なもの」と「呪術色の濃い神秘主義を標榜するカルト的なもの」の二つのタイプがあると説明しました。
しかし新宗教の救済観は、そもそも、そうした個別的な現世利益を含んだ現世的で身体感覚的なものなのであり、最終的には全人的な生命の解放と開花のうちに活力と喜悦に満ちた生活を送る(天理教ではこれを「陽気ぐらし」と呼ぶ)ことを救済状態のイメージとする「生命主義的な救済観」なのであって、決して救済観をもたないわけではない(対馬路人・西山茂・島薗進・白水寛子「日本の新宗教における生命主義的救済観」『CISR 東京会議紀要』一九七九)。
大教団化した新宗教が社会的適応を遂げる際に、重荷に感じて棄て去った遺物をあえてひろいあげることによって、小規模ながら最近急速に教勢を伸長させている新宗教がいくつかある。こうした新宗教は、台頭した時期が遅く、また意味体系の性格も先行する先輩の新宗教とかなりちがっているため、ここでは新新宗教とよぶことにする。
新新宗教には大別して二つのタイプがある。一つは終末論的な根本主義をかかげるセクト的なものであり、もう一つは呪術色の濃い神秘主義を標榜するカルト的なものである。
この論考が発表されたのは、外国人研究者との議論が平行線に終わったCISR東京会議から約半年後、大きな反響を呼ぶことになる『思想』に掲載された「生命主義的救済観」論文が世に出る四か月前にあたります。ですから、「生命主義的な救済観」というアイディアはまだ限られた関係者にしか知られていなかったはずですが、最初の引用を見れば明らかなように、西山はこの時点で早くも、日本の新宗教が生命主義的救済観を持つことを既知の前提とし、それとの対比で新新宗教の特徴を論じています。
このような説明の枠組みは、その後、西山以外の論者によっても踏襲され、新新宗教論の基本的な雛形となりました。もし仮に「生命主義的救済観」論文が試論的なものだったにもかかわらず、十分な検証のないまま定説になったのだとすれば、その背後にはこうした新新宗教論の構造が影響していた可能性が考えられます。
なぜなら、これ以降、1980年代の日本においても宗教団体の設立は相次ぎ、有名なものだけでも法の華三法行、オウム真理教、幸福の科学などの教団が、新たに新新宗教のリストに追加されていきます。それに伴い、当初の「終末論的な根本主義」と「呪術色の濃い神秘主義」の二種類があるとされた説明は早々に放棄され、のちには1970年頃以降に目立つようになった宗教集団を一括して新新宗教と呼ぶ立場も現れました。
しかし、「新宗教は現世肯定的・楽観的・生命主義的であるのに対し、新新宗教は〇〇である」という説明の枠組み自体は脈々と受け継がれ、同時代の宗教運動の分析に用いられたのです。「新宗教」という概念が、目まぐるしく移り変わる「新新宗教」の新奇さが一体どこにあるのか測定するための、一種の物差しとして利用された結果、説明の枠組みの前提にある「生命主義的救済観」論文が批判的な検証の対象になりにくくなったというのは、十分に考えられる推測でしょう。
かくして、「生命主義的救済観」という概念が提唱されて以降、日本の「新宗教」は同一の救済観を共有するグループとして捉えられるようになり、さらには、「新新宗教」の異質さを測る基準として機能するようになりました。ただ、「新宗教」と「新新宗教」を対比する分析は、単なる異質性の指摘にとどまらず、「新新宗教」に対する否定的なニュアンスを含む場合が少なくありませんでした。この背景には、「新新宗教」が名前を与えられるよりも先に、生命主義的救済観に「危機」をもたらす存在として提示されていたことも関係しているでしょう。
特に1995年のオウム真理教事件以降、日本にも「カルト」や「カルト宗教」といった否定的な呼称が流入してからは、「カルト」に該当するのは「新新宗教」のみであると言いたげな論調すら現れました。このような用語法は、もちろん欧米の新宗教研究(new religions studies)の言葉遣いとは大きく異なっています。そちらでは「カルト」という否定的な言葉を避ける際に、「新宗教(new religions)」や「新宗教運動(new religious movements)」という表現を用いるのが一般的だからです。
「カルト」との対応関係を「新新宗教」に限定することは、旧来の「新宗教」グループの健全さを印象づける働きをします。このような防御的な切断処理の結果として、過去には複雑ながらも深い関係にあった「新宗教」と「new religions」という二つの言葉が、現在では互いに無関係であるかのような状況が生じていると言えるでしょう。
ここまで、二つの用語の分離をもたらした片方の要素である、日本側の用語法の変化について見てきました。では、もう一方の要素である「new religions」の使用法の変化とは何かというと、「カルト」という否定的な語の言い換えとして使われるようになったことに尽きるでしょう。しかし、これも当初からそうだったわけではありません。もう一度思い返してみれば、「宗教と社会変動」プロジェクトの時期には共に近代以降に成立した宗教として、両者の国際的な比較研究が期待されていたのです。
「new religions」が「カルト」の言い換えとして使用されるようになった背景には、アメリカで展開されたいわゆるカルト論争と呼ばれる激しい社会的対立があります。この争いの火種は、サンフランシスコ湾岸地域を中心に「new religions」が台頭しはじめた時から伏流していましたが、1970年代を通じて本格化しました。そして、1978年に対立を決定的に激化させる事件が発生します。その悲劇的な事件こそ、この年を分岐点とみなすべき第二の理由です。
もう一度時計の針を1978年に戻します。ただし、場所はCISRの会議が開催されていた師走の東京ではありません。そこからさらに遡ること一か月前、南米ガイアナの密林の一画に建設された、とある宗教団体のコミューンです。
◆「カルト」と新宗教研究(NRS)
1978年11月18日、南米ガイアナのジョーンズタウンと呼ばれた入植地で、人民寺院の教祖ジム・ジョーンズとその信者九百名以上が集団自殺を遂げました。この事件は、2001年の同時多発テロが起きるまで、米国史上で最も多くの民間人が犠牲となった出来事だったともいわれます。アメリカの各メディアはこの事件をこぞって大々的に報じ、翌年の世論調査で事件のことを知っていると回答した人の割合は九十七%に上りました。これは、真珠湾攻撃とケネディ大統領暗殺という歴史的事件に次いで高い認知度だったそうです。
主流派プロテスタント教会の一教派の牧師資格を持ち、自らをマルクス主義者と称したジム・ジョーンズが率いた教団をどのように分類すべきかは、実のところ厄介な問題です。しかし、この事件を契機に、アメリカ社会で「カルト」への警戒心と敵意が急激に高まったことは疑いの余地がありません。それはつまり、人民寺院とは直接関係のない無数の周縁的な宗教運動が、単に「カルト」と呼ばれているというだけの理由で、重大な社会的脅威と見なされるようになったことを意味しています。
再び『オックスフォード新宗教運動ハンドブック』から、ジェームズ・ルイスにこちらの方の新宗教研究の略史を語ってもらうと、グロックとベラーの『The New Religious Consciousness』(1976年)に代表される、新宗教の社会的意義を積極的に評価するタイプの研究はニードルマンとベイカーの『Understanding the New Religions』(1978年)を最後に影をひそめ、以後、この分野はカルト論争によって提起された問題に支配されるようになったといいます。
興味深いのは、ルイスが上記の二つの学術アンソロジーを紹介する中で、カルト論争が過熱する以前にも新宗教研究が存在していた事実を、特筆に価することとして強調している点です。こうした筆致は、この本が出版された2004年の時点ではもはや、多くの読者にとってカルト論争とは関係がない問題関心によって行われていた新宗教研究がイメージできなくなるほど、両者が密接に絡み合っていたことの証左に思われます。
ジョーンズタウンの悲劇がカルト論争を引き起こしたわけでは決してありませんが、この事件によって先鋭化した社会的対立は、新宗教研究(以下、NRS)の主要テーマを規定すると同時に、この分野の急速な発展を促しました。ゴードン・メルトンによれば、1970年当時、新宗教を研究する学者は片手で数えられるほどしかいなかったのに、1980年代半ばにはその数は百人以上に達したといいます。また、ルイスは、社会的対立は社会学にとって「bread-and-butter issue(最も重要で基本的な事柄に関わる問題)」であるため、この時期に新宗教研究に新たに参入した研究者の多くが社会学者であったと指摘しています。
では、この分野の方向性を決定づけたカルト論争とはどのような議論だったのかというと、私の理解では、その要諦は「カルト宗教の信者の信仰は洗脳やマインド・コントロールといった精神操作の産物なのか否か」という点にあります。そして、この論争の内容そのものが「カルト」という言葉を「新宗教(new religions)」に言い換える動機と密接に結びついているのです。
「カルト教団」に反対する人々は、「カルト」は心理的な精神操作によって入信者に信仰を植え付けていると主張し、この理論を信者を無理やり脱会させる活動を正当化するために利用しました。この活動は「洗脳を解く」という意味でディプログラミングと称されましたが、実際には信者を拉致・監禁し、本人の意思を無視して脱会を強要する行為として、後に厳しい批判を浴びることになりました。
本来、カルトという言葉は宗教社会学における教団類型論で使われた用語であり、特に否定的な意味合いを含むものではありませんでした。そのため、多くの研究者はこの用語を狭義の社会科学的意味で使い続けることに未練を抱いていました。しかし、「カルト」信者の信仰は精神操作の産物だとする意見や、それを根拠に信者に力づくで棄教を迫る活動が横行した結果、この言葉は極めて論争的な性格を帯びるようになってしまいました。このような状況の中で最終的に「カルト」という用語を放棄する決断が下され、日本に由来する「新宗教(new religions)」や「新宗教運動(new religious movements)」という言葉が中立的な表現として用いられるようになったのです。
しかし、NRSがこうした方向へ進展していったことは、この分野の研究者がカルト論争において一方の当事者とみなされる結果を招きました。「カルト」信者は洗脳やマインド・コントロールを受けているという主張を否定する研究や、そうした「カルト」のステレオタイプを維持する構造についての社会学的な分析などは、反対活動を行う人々の目には利敵行為と映ったからです。「カルト擁護者(cult apologists)」という呼称も、そうした対立の構図の中から生まれたものだと言えるでしょう。
ただ、平均的なNRSの研究者が物議を醸す宗教団体に対して擁護的な態度を取る傾向があるのは否定しがたく、その結果として苦い経験をしたケースも存在します。象徴的な事例としてよく挙げられるのが、まさに本稿がNRSの歴史の参考元にしているジェームズ・ルイスとゴードン・メルトンが日本で関与した一件です。両名は1995年のオウム真理教事件が発生した際、当局による教団に対する措置が宗教的迫害に該当しないか調査する目的で来日しましたが、その渡航費用をオウム真理教が負担していたことで立場の中立性に疑問を持たれ、批判を浴びました(当時の新聞記事を参照)。特にルイスの方は、教団が提供した資料を十分に検証せず受け入れたことでも非難され、この分野全体の信用に悪影響を及ぼす結果となりました。
しかしながら、このような惨憺たる失敗だけに注目して、NRSの研究成果全般を「カルト」からの利益供与に動機づけられた中身のない見せかけと考えるのも、それはそれで極端なものの見方でしょう。私見では、この分野はこれまでに、「カルト問題」を理解する上で無視できない二つの重要な貢献をしています。
一つ目は、実証研究によるマインド・コントロール論の批判的検討といった性格のものです。例えば、知能テストの成績から新宗教の信者の認知機能が正常であることを証明したり、布教に応じて入信する人の割合は低く、加えて多くの入会者が早期に退会している事実を示すことで、強力な精神操作技術の存在を否定する方向の研究です。もう一つは、社会問題の社会学の応用分野といった趣のもので、「カルト問題」がいかにして社会的に構築されるのかについての視点を提供するものです。特に、後者の方向性の研究は今の日本にも重要な示唆を与えてくれると思われるので、次の節で改めて取り上げたいと思います。
この節ではNew Religions Studies(NRS)の概要と、この分野で「カルト」という用語に代わって「新宗教(new religions)」が用いられるようになった経緯を整理しました。簡単なあらましではありますが、日本における「新宗教」という用語の使われ方との相違点を浮き彫りにできたのではないかと思います。
本稿が当初掲げた目的は、「新宗教」と「new religions」という二つの言葉が、とりわけ日米の学術分野でどのように使われてきたのかを描き出すことでした。ここまでの検討を通じて、少し大袈裟に言えば、この世界には二つの異なる「新宗教研究」が存在するという見方を示せたのではないでしょうか。
しかし、言ったそばから意見を覆すようで恐縮ですが、例えば特定の教団を調査している現場で、自分の研究が「新宗教研究」なのかどうかなど気にならなくなるような境地は存在するでしょうし、新宗教研究にせよNRSにせよ、むしろコアとなる部分はそうしたフィールドワークにこそあり、本稿で取り上げてきたような議論は表層的な事柄に過ぎないのかもしれません。
とはいえ、やはり研究対象をどのような名称で呼ぶかということは、その分野の研究者がどのような問題関心のもとに研究を行っているかを端的にあらわすものでもあります。裏を返せば、直訳同士の関係にあって指示対象も一部重なる「新宗教」と「new religions」という二つの言葉を冠した研究分野が、これほどまでに異なる視点から研究を展開してきたという事実は、門外漢にとってかなり驚きでした。
本稿の最後となる次の節では、これまでの検討を振り返りながら、それぞれに特色を持つ二つの流儀の「新宗教研究」と、私たちがどのように向き合うべきかについて考えてみたいと思います。
例えば経済学では、さまざまな見解の相違から分かれた流派が存在し、現実の経済問題に対して異なる処方箋が提示されるのは日常茶飯事です。経済学とはそういうものだと理解していて、議論の内容を聞けば「あの学者は〇〇派だ」と見抜くことのできる目利きの一般人も少なくありません。
一方、新宗教研究については、このような方向性の違いがあること自体、部外者にはほとんど知られていないのが実情でしょう。そのため、例えば旧統一教会への解散命令請求のような社会的に論議を呼ぶ問題において複数の学術的意見が示されると、立場の異なる専門家に対して、隠された意図や動機があるのではないかと疑いの目が向けられることも少なくありません。
しかし、建設的な議論を行うためには、どちらの意見もそれぞれの研究分野で蓄積された知見にそれなりに基づいていることを前提とするのが肝心です。そのためにも、旧統一教会問題に対する態度の違いが、新宗教研究とNRSそれぞれの、どういった視座やアプローチに由来するのか整理することには意義があります。そうした理解こそが、疑心暗鬼に陥ることなく、双方の「新宗教研究」とうまく付き合っていくための第一歩となるはずだからです。
◆私たちの社会と「新宗教研究」
日本の学術研究の世界では、「新宗教」という用語は1970年代の中ごろからよく使用されるようになったといいます。この語が採用された主な理由として、『新宗教辞典』(弘文堂、1990年、2頁)では、従来使われていた「新興宗教」という言葉に含まれる蔑視的なニュアンスを避ける目的と、海外の宗教運動研究からの影響の二点が挙げられています。
本稿では特に後者、すなわち「new religions」との比較研究から受けた影響に着目し、「新宗教研究の宗社研」の誕生にも寄与した「宗教と社会変動」プロジェクトを通じて、国際的な学術交流が「新宗教」という概念の形成にどのような影響を与えたのか検討しました。これにより、異質な宗教文化を比較する際の共通項として「近代化」に注目が集まる中で、幕末維新期に成立した民衆宗教に国家神道と対決する近代性や合理性を見出した村上重良の近代民衆宗教研究が重要な先行研究として位置付けられ、この概念の成り立ちに深く関わった可能性を指摘しました。
そうなった要因として、「new religions」との比較研究から受けた刺激を重視する見方の妥当性についてはさらなる検討が必要でしょうが、新宗教研究が村上重良の民衆宗教研究から多大な影響を受けていることは、さまざまな場面で指摘されています。例えば、日本の新宗教研究の立役者の一人である島薗進は、2003年に伊藤雅之の論文で行われたインタビューの中で、以下のように述べています。
私個人が七〇年代の中頃からはじめた研究環境、とりわけ民衆宗教の研究とつながる路線のなかでは、宗教運動が社会に危険な作用を及ぼすというよりも、創造的な革新機能をもつというほうが強調されて、私もその流れのなかで仕事してきたことになると思います。ですから、新宗教研究者のなかでは、私は歴史学や思想史を研究する人たちに近かった。江戸時代から明治の中期、せいぜい(一八九九年創立の)大本教くらいまでを対象にして、国家神道に対するオルタナティブとしての民衆宗教という、そういう見方をするタイプの研究を、現代にまでもってこようという関心でやってきたんです。
細かいことを言えば、宗社研の解散シンポジウムにおいて、島田裕巳が島薗進に代表される「民衆宗教の研究とつながる路線」に対し、民衆の世界観に同調することを客観的な理解と呼んでいるだけではないかと批判するなど、過去には新宗教研究の内部でも路線対立が見られました。しかし、そのはじまりから現在に至るまで、学術用語としての「新宗教」は、この言葉を単に「新興宗教」の言い換えだと思っている人々の想像をはるかに超え、「民衆」という概念と深く結びついています。
これと関連して、現在の日本宗教学会会長である宗教学者の藤原聖子は、ある論文の中で、日本の新宗教研究について次のように述べています。
厳密にいえば、日本の戦後宗教学の新宗教研究などは、大学の研究者という“エリート”にとって「異文化」に該当する民衆文化の研究という意味を持っていたことを考えれば、欧米の宗教学者が現代の欧米社会について論文を書くようになったとしても、それは即、「自文化」の研究とは言えないのだが、宗教学全体が 「広義の社会学」の方に転換し始めたとは一九七〇年代から指摘されてきたことである。
宗教学全体が現代の「自文化」の研究へとシフトしてきたことを説明する文脈で、現代社会を対象としている場合でも「異文化」の研究と見なせる具体例として述べられた寸評ですが、隣接分野の専門家も、日本の新宗教研究を支えていたのは宗教という形であらわれた民衆文化への関心だったと認識していたことがうかがえます。
こうした「民衆宗教の研究とつながる路線」の研究について、先ほど引用したインタビューの中で「国家神道に対するオルタナティブとしての民衆宗教という、そういう見方をするタイプの研究を、現代にまでもってこようという関心」と表現されている内容を私なりに噛み砕くと、「民衆宗教」に備わっていたとされる要素を再解釈しながら「新宗教」へと継承し、その成立期を幕末維新期から現代にまで拡張することだったと言い換えられるのではないかと思います。
島薗進もその一員であった宗社研Aグループが執筆した「生命主義的救済観」論文は、まさにそのような試みの一つだったと言えるでしょう。この論文によって、村上重良が民衆宗教に見ていた前進性や開明性や合理性は、現世肯定的で楽観的で生命主義的な考え方や行動様式として読み替えられ、敗戦後に成立した教団をも含めた新宗教全体の特徴として提示されました。
しかし同時に、1978年のCISR東京会議のために用意されたこの論文では、「生命主義的救済観」が危機に直面しているという現状認識が語られ、こうした考えが1970年代以降に「新宗教」とは異質な「新新宗教」が日本で勢力を拡大したという理解へとつながります。ただし、この流れの全ての起点となった「生命主義的救済観」論文については、その試論的な性格を指摘する声があることは、すでに紹介した通りです。
では、新宗教が「民衆」の宗教と位置付けられるのだとしたら、それとは異なる新新宗教はどのようなものと見なされるのでしょうか。この点については、島薗進の著書の以下の記述が参考になります。島薗は、新新宗教にしばしば見られる特徴として「宗教集団の内閉化」を挙げており、この「内閉化」という言葉には次のような意味が込められていると述べています。
過去にあった宗教的隔離のパターンとは異なる、「組織の時代」「群衆 (大衆)の時代」としての現代に特有の集団秩序のパターンである。こうした攻撃的な組織された群衆的集団の性格を内閉的という語の意味に含めたい。
新新宗教にしばしば見られるとされる内閉性が、「群衆(大衆)」的な集団として特徴づけられていることが分かります。かたや新宗教が「民衆」の宗教と見なされていたことを踏まえると、新宗教と新新宗教の集団としての性格は、「民衆」と「群衆(大衆)」の対比になっていると捉えられるでしょう。すなわち、知識人の啓蒙を必要とせず、自律した個人として主体的に行動する「民衆」と、上層部の命令に従い、組織として一体となって動員される「群衆(大衆)」という二項対立の構図が浮かび上がってきます。
島薗はすべての新新宗教が内閉的な性格を持つと述べているわけではありません。しかし、引用箇所でより注目すべき点は、「群衆(大衆)」的という評価が宗教団体だけに下されているわけではないことです。むしろ、ここでは現代そのものが「組織の時代」「群衆(大衆)の時代」とされており、特定の宗教の性格と、それを取り巻く社会の性格との間に何らかの関係が仮定されていることが読み取れます。
例えば旧統一教会は1954年に韓国で創設された教団ですから、教団の性格と日本の現代社会との間に直接的な影響関係があると想定されているわけではないでしょう。そうではなく、ここで示唆されているのは、「群衆(大衆)」的な性格の内閉的な教団が信者を集め拡大する背景には、現代日本社会が持つ「群衆(大衆)」的な傾向が間接的に影響しているという考え方です。
つまり、日本の新宗教研究には、ある時期に信者を増やして目立つ宗教団体は時代の空気に適合しているゆえに成長しているのであり、その時々に勢いのある団体の特徴には、それを取り巻く社会の時代相が反映しているという発想が根強く存在します。このような考え方を敷衍して社会問題化した宗教団体を分析すると、それらの宗教団体もまた、我々の社会が間接的に生み出した存在として捉えられますが、ただし、それは社会の歪みや望ましくない傾向の反映であり、この歪みを是正して理想的な社会に近づくことで、結果的に当該団体の消滅を含む社会問題の解消につながるという結論に至ります。
このような考え方を2022年以降に浮上した旧統一教会問題に当てはめてみると、このケースでの社会の歪みや望ましくない傾向とは、「政治と宗教のもたれ合い」という言葉で象徴されているのが分かります。つまり、旧統一教会が存続してこられたのは「政治と宗教のもたれ合い」という社会の歪みの結果であり、問題が明るみになった今、それを是正する必要がある。この歪みが糾されれば、教団自体も自然と解体へ向かうはずだ、という発想のもとに、専門家としての提言が行われていると解釈できます。
先ほど、戦後の新宗教研究の関心の所在についての見解を引用した藤原聖子は、オウム事件の衝撃が冷めやらぬ1996年に発表した論文「『鏡』と『擁護』——オウム真理教事件によって宗教学はいかに変わったか——」の中で、社会から問題視される宗教団体を宗教研究が批判的に分析する際のアプローチを「真偽追求型」、「啓蒙型」、「文化批判型」の三つに分類しました。
ここでは各タイプの詳細な解説は省きますが、旧統一教会が日本社会に今なお存在している原因を「政治と宗教のもたれ合い」という社会構造の欠陥に求め、それを解決した上で目指すべき社会の方向性を示そうとする先述の分析枠組みは、この三分類の中で「啓蒙型」に該当すると言えるでしょう。
これは余談ですが、その際、啓蒙の成果として実現を期待される健全な社会は、どうも理想化された「民衆」のイメージが重ね合わされているような印象を受けます。この見立てが的外れでないとすれば、戦後啓蒙への反発をきっかけとして流行した民衆文化の研究から、こうした啓蒙的な色合いの強い議論が派生してくるというのは、なかなか不思議な巡り合わせだと感じます。
ここまで、日本の新宗教研究のうち「民衆宗教の研究とつながる路線」の研究が、旧統一教会問題に示した見解について、その視点や分析枠組みに着目して整理してきました。それでは、もう一つの新宗教研究である New Religions Studies(NRS) は、社会的に問題視される宗教団体をどのように捉えているのでしょう。
NRSもまた、そうした宗教団体を生み出しているのは私たちの社会であると考えます。ただし、その含意は日本の新宗教研究とは異なり、社会が特定の宗教運動に「カルト」というラベルを貼り、問題視することによって「カルト問題」が生み出されているのだと捉えます。こうした考え方は、ラベリング理論や社会問題の構築主義アプローチという、社会学の理論の「カルト問題」への応用として見ることができます。
NRSが依って立つ社会学的な視点は、マックス・ウェーバーと並び社会学の中興の祖とされるエミール・デュルケムによる大著、『社会分業論』の次の言葉にエッセンスが集約されています。
われわれは、それを犯罪だから非難するのではなくて、われわれがそれを非難するから犯罪なのである。〔中略〕ある行為は、社会によって排斥されるからこそ、社会的に悪なのである。
ここで述べられているような逆説的な発想は社会学が得意とするところですが、このデュルケムの言葉を「カルト問題」に当てはめるならば、「カルトは、社会がそれをカルトとして排斥するからこそ、カルトなのである」となるでしょう。
もちろん、いくらNRSの研究者であっても、あらゆる新宗教の集団に問題がないと主張しているわけではありません。オウム真理教事件は海外の研究者たちにとっても、深刻な教訓として記憶されています。しかし、「カルト宗教」として一括りにされた集団の危険性がしばしばマスコミによって大きく誇張して報道され、その結果として民主主義的な手続きが歪められる可能性があるという懸念は、事件の前後を通じて基本的に変わらないままです。こうしたことを踏まえると、NRSという研究分野は「新宗教研究」を名乗りつつも、かなりの程度「新宗教を取り巻く社会」の分析に力を注いでいる分野と言えるかもしれません。
NRSのような方向性の研究をどのように受け止めるべきか、さしあたり一つのことを確認するだけで十分だと思います。それは、社会的に問題視されている宗教団体に対する国家の干渉に慎重な態度を取ったり、反対の意見を表明する研究者が、必ずしもその団体に共感しているわけでも、思想的立場を共有しているわけでもないという点です。当たり前のことを言うようですが、ラベリング理論や社会問題の構築主義アプローチは社会学という学問の発展の中で生まれた理論的枠組みであり、別に「カルト教団」を擁護するためにひねり出された理屈ではありません。
前節でNRSの発展の歴史を概観した際にジェームズ・ルイスが述べていたことですが、カルト論争の激化を契機にこの分野へと引き寄せられた研究者の多くは社会学者でした。この分野の成長期を牽引した研究者たちが社会学をバックボーンとしていたことは、NRSの「カルト問題」に対するアプローチに大きな影響を与えています。
ですから、海外のNRSの研究者が旧統一教会の解散命令請求に反対していたとしても、複数ある学術的意見の一つとして冷静に受け止めるのが望ましいでしょう。結論に同意するかどうかは別として、特定の理論や考え方に基づけばそのような意見もあり得ると認識しておくことは、面倒でもそれに見合う価値があります。
なぜなら、あらゆる意見を「カルト」側を利するかどうかという基準だけで判断し、自分と意見の異なる相手をすべて敵対勢力の影響下にあると考えるようになると、敵とみなす範囲が際限なく広がってしまうおそれがあるからです。そうなってしまえば、理性的で建設的な議論は期待できなくなってしまいます。
とはいうものの、社会的に問題視される宗教団体に国家が毅然とした措置をとることに対して、国民の大多数が賛成しているのは世論調査の結果からも疑いの余地なく明らかです。そのため、それほど多くの人々が支持している事柄について、まだ議論が必要だと主張すること自体に疑問を感じる人もいるかもしれません。
しかし、社会の多数派が「反社会的な宗教」は排除すべきだと考え、そのような雰囲気が社会全体を覆うことは、私たちの国においても過去に例がないわけではありません。まさに戦前・戦中に日本の新宗教が経験した「弾圧」の歴史は、たとえそうした社会的合意が形成されていたとしても、なお慎重に議論を尽くす必要性を私たちに教えています。
本稿はこれまで、主に学問の世界における学術用語の問題として「新宗教」と「new religions」の用いられ方の変遷をたどってきました。しかし、やや視野を広げて国家や社会との関係に注目すると、新宗教は規制や弾圧の対象となる「非宗教」と、信教の自由が認められる「宗教」との狭間で揺れ動き、歴史上、常に信教の自由の問題の最前線に位置してきたことが見えてきます。「新宗教」と「new religions」という二つの言葉をめぐる小論を締めくくるにあたり、新宗教と信教の自由との関係についてわずかに触れ、本稿の結びにかえたいと思います。
結論にかえて
「一九四五年まで、日本国民は全体主義の重圧下で長い間苦しみあえいでいた。その期間、宗教団体は、たいてい弾圧されるか、思想統制機関として再編成されていた。」
これは序盤で引用した『神々のラッシュアワー』の一節ですが、1945年の敗戦と占領を経験するまで、日本国民は神道を事実上の国教に定めた国家神道体制の下で信教の自由を奪われていたというのは、誰しも一度は聞いたことのある歴史の語りでしょう。
本稿で民衆宗教研究の創始者として登場した村上重良は、実は国家神道の研究においても大きな足跡を残した学者であり、その著作『国家神道』(岩波新書、1970年)は、上記のような国家神道のイメージを広めるうえで決定的な役割を果たしました。村上は、戦前・戦中の宗教弾圧は国家神道が自らの威信を守るために、民衆による自主的な宗教運動を国家神道の教義に背く「淫祠邪教」として執拗に攻撃したことによって起きたと説明します。
しかし、その後の研究の進展により、戦前・戦中の宗教弾圧に関するこうした見方は徐々に更新されてきています。現在では、宗教の取り締まりは国家権力が宗教的な動機によって一方的に暴力を行使したというよりも、世俗的な価値観と相容れない価値観を掲げた宗教団体を批判する、国民の多数派によって形成された世論が背景にあり、官民一体となって反社会的とみなされた宗教を排撃していた側面が明らかにされています。
実際のところ、明治憲法は第二十八条で信教の自由を保障しており、宗教を取り締まる特別高等警察の側も、取り締まりの対象となる邪教や迷信といった「非宗教」と、信教の自由が保障されるべき「宗教」との区別に常に悩み、社会通念と照らし合わせながら様々な理由のもとに取り締まりを行っていたという研究も積み上げられています。
では、宗教取締の実態が多様で複雑なものであったにもかかわらず、戦前の宗教弾圧は異端の存在を許さない国家神道によって行われたという単純で図式的な理解が広く浸透したのはなぜかといえば、理由の一つとして、そうしたイメージがアメリカ占領下で作り上げられたからという見方が近年有力になりつつあります。このような視点を強く打ち出している研究書に、ジョリオン・バラカ・トーマス『自由を偽装する——アメリカ占領下の日本における宗教の自由』」(シカゴ大学出版局、2019年)を挙げることができます。
本書は、アメリカが自らを信教の自由の贈り主として位置付けるために、戦前・戦中の日本では国家神道によって国民の信教の自由が侵害されていたという「神話」を広めたと論じます。こういった見解をめぐっては今もなお議論が交わされていますが、少なくとも、戦前の宗教弾圧は国家神道による異端取締だったという従来の見方が揺らいでいるのは間違いありません。
こうした研究動向を踏まえれば、現時点でも次のようなことは言えるでしょう。戦前・戦中の日本でも明治憲法の枠内で信教の自由は保障されていましたが、「非宗教」と「宗教」の線引きによって自由が保障されるか否かが決まるという、信教の自由に内在する普遍的な問題はここでも顕在化していました。だとすると、当時の信教の自由の状況についての評価は、この線引きがどれほど妥当だったかという判断にかかってくることになります。
戦前の宗教統制を肯定するならば話はそこで終わりですが、もし当時の社会で許容されていた信教の自由の水準が不十分だったと考え、戦前の過ちを繰り返さないようにしたいのであれば、単に「国家神道」を警戒するだけでは全然足りません。むしろ、宗教を取り巻く社会の側がどのような基準や根拠で「宗教」と「非宗教」の線引きを行っているのかを、常に問い続ける必要があるという教訓が引き出せるはずです。
特に「新宗教」というグループは、明治憲法体制下で邪教とされていた教団が、戦後に「新宗教」と呼ばれるようになったことや、「カルト」という否定的な語の言い換えとして「new religions」が使われるようになったことが示しているとおり、「宗教」と「非宗教」との間で線引きが行われる際に、対象を「宗教」の範疇に含めるための枠組みとして機能する傾向があります。
ジョリオン・トーマスは著書『自由を偽装する』の第八章で、このように弁明的に機能する学術カテゴリーの「新宗教」は占領下の日本で生まれ、後に英語圏に輸出されたと論じています。ただ、ここでちょっと付言しておくと、この部分の記述は本稿が冒頭で紹介し、その正確さに疑問を呈したジェームズ・ルイスの説に依拠しているため、一度英語圏に渡った「new religions」という用語が日本に与えた影響についてあまり意識されていないように見えます。それゆえ、本稿はこの本の第八章の議論を補足するものとしても読めるでしょう。
この第八章の議論の中でトーマスは、「新興宗教」の蔑視的なニュアンスを拒否して「新宗教」という用語を提唱した新宗連ですら、国家による監視の対象とされるべき宗教があると認めていたことを指摘し、新宗教という枠組みの内側にも「良い宗教」と「悪い宗教」の区別が持ち込まれる可能性について、次のように述べて注意を促しています。
We miss something if we ignore the ways that the academic category of "new religions" can function apologetically to exclude some groups and practices from the realm of "real religion."
「新宗教」という学術カテゴリーが、あるグループや実践を「本物の宗教」の領域から締め出すためにどのように弁明的に機能しうるのかを無視するならば、私たちは大事なことを見落としてしまう。
「新宗教」が「宗教」と「非宗教」の狭間に位置する存在であるということは、この学術カテゴリーが周縁的な宗教運動に対して包摂の方向にも排除の方向にも、どちらにも機能する可能性があることを意味しています。宗教概念批判の展開によって、今では「宗教」を定義する行為自体が政治的であるという認識が広まりつつありますが、こうした観点から「新宗教」がどのように定義され、この言葉がどのように用いられてきたのかを振り返って見ることは、これからの社会と宗教との関係を考える上できっと役に立つでしょう。なぜならば、「新宗教研究」という研究領域そのものが、私たちの社会が行う「宗教」と「非宗教」の線引きの、いつも最前線の現場だったからです。
【参考文献】
*本稿の執筆は、国立国会図書館(NDL)デジタルコレクションの個人送信サービスを通じて閲覧できた多くの図書の存在に負うところが大きいです。近年飛躍的な充実を遂げているこのサービスへの感謝の気持ちを、ここに記しておきたいと思います。NDLデジタルコレクションを含め、ウェブ上で閲覧可能な資料には可能な限りリンクを付しました。なお、リンクの最終確認日はすべて2025年1月4日です。
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