お城の舞踏会で踊る黒人とポスト・ポストコロニアルな想像力
先日トゥギャッターのあるまとめにコメントをつけておいたところ、まあまあ反応があってもしかしたら関心をもつ人もいるのかなと思ったのでこちらで大幅に追記して記事にすることにしました。
発端となったまとめがこれです
それにつけた僕のコメントがこちら
まとめの内容は「ディズニー映画の舞踏会のシーンに黒人がいて違和感があった」という会話に「歴史的事実としてヨーロッパの宗主国には植民地の黒人との間に生まれた肌の色が濃い上流階級がいたんだぞ、違和感を感じるのはお前が無知だから」と識者の方がお説教をかましているというもの。まあ発端となったつぶやきの「子供には絶対見せられないと思いました」とかいう発言を見ると、ディズニー映画なんか歴史的事実と違うところだらけだったろうになんで黒人が舞踏会にいることにだけそんな態度なんですか? と尋ねたくもなるけど、でも識者の人の発言にもひと目で有色人種とわかる上流階級の成員なんてどれほどいたんですかね、というのは気になるところです。
以上が僕がトゥギャッターまとめを一読して感じたことで、このもやっとした感じをそのまま書いたのが上に引用したコメントでした。
さて、ここで引き合いに出している作品がインカ・ショニバレCBEの『ヴィクトリアンダンディの日記』シリーズで、コメント中にも貼りましたがこの作品画像が含まれる新聞記事が以下のリンクです。あとこのままこの記事を読み進めてもいいようにちっちゃく作品画像が表示されるようにリンクも貼っておきます。
人の輪の中心に立っているのがショニバレさん本人で、これは衣装を着て構図を決めて撮影した写真をプリントした作品なんですね。ちなみにこの人は英国から勲章をもらって以降、自分のアーティスト名にそれを律儀につけているので名前を書くときはお尻にCBEが必要です。「こんにちわ私は中曽根大勲位です」って自己紹介してるみたいなもんですね。
この作品で特筆すべき点は1998年10月にロンドンの地下鉄各駅で100箇所ほどに展示されたことです。つまり通勤や通学で駅を利用する人々に見せつけるように掲示したパフォーマンス込みで作品として成立しているのです。2015年にショニバレについてコラムを書いた徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学名誉教授はこの事について次のように語っています。
『ヴィクトリアンダンディの日記』が発表された1998年から四半世紀を経て似たような表現がディズニーというエンターテインメント産業の本流で行われており、それに対して違和感を覚えることすら内なる差別心の表れではないかと疑われる状況になっているのはとても興味深い事です。少なくとも1998年当時、地下鉄駅で19世紀の上流階級然として振る舞う黒人男性の写真を見かけた人々がそれに違和感を覚えたとしたらそれこそアーティストが狙っていた効果であって、むしろ「植民地時代には混血児もたくさんいたからね」なんて反応は想定外だったと僕は思います。それに100箇所に掲示したパフォーマンスも問題提起ではあっても別にロンドンっ子の内なる差別心を炙り出してやろうなんて目的ではなかったはずです。
およそ24年間をかけて生じたこの差異は一体どのような価値観のアップデートの結果なのか、この記事ではもう少し論じてみます。そしてこの先の論考を進めるにあたり、ショニバレの作品から一歩進んだ現在の状況をポスト・ポストコロニアルという言葉で分析したいと思います。なぜかというとインカ・ショニバレCBEが典型的な、とても理解しやすいポストコロニアルなアーティストだからです。まず次の節ではポストコロニアルとは何か、ショニバレを例に整理していきましょう。
ポストコロニアルなアーティスト インカ・ショニバレCBE
ポストコロニアルとは、ポスト-(後の)コロニアル(植民地支配)という意味の言葉で、20世紀後半にそれまで植民地だったアジア・アフリカの諸国家が独立した後も植民地だった時代の影響がいっぱい残っていることを強調するために使われはじめた造語です。主に今もなお続く植民地主義の残滓を批判する文脈で用いられます。
インカ・ショニバレCBEは1962年にロンドンで生まれますが、両親は英国の旧植民地であるナイジェリア出身で自身も3歳から17歳までをナイジェリアのラゴスで過ごしています。しかし旧植民地にルーツがあるからといってすぐにポストコロニアルな作家である理由にはなりません。なぜそう呼べるのかはこの人の数多くの作品で媒体として用いられるアフリカンプリントの成り立ちに関わってきます。アフリカンプリントとは何か、見てもらうのが早いので次の画像をどうぞ。
ああアフリカの人たちが着てる服に使われてるカラフルで大きな柄が特徴的なあの布ね、とすぐにイメージできると思います。呼称とも相まってこの布はアフリカの伝統工芸品だと勘違いしてしまいそうになりますがその起源は全く違います。
まず17世紀にオランダが東インド会社を通じてインドネシアの伝統工芸品であったバティックという「ろうけつ染めの布」とその技法を手に入れ、さらに製造を機械化する事に成功します。ヨーロッパ各地に広がったこの染め物技術はイギリスにおいてインドや東アフリカの植民地から仕入れた綿と結びつくことで工芸品から大量生産される製品へと変化しました。それらの市場として選ばれ、19世紀末から20世紀にかけて大量の商品が輸出されたのが当時植民地だったアフリカです。現地のニーズを反映してデザインはより「アフリカ的」に洗練されていき、時代と共に誰もがアフリカといえばあの布、と思い浮かベるような存在になったというのがアフリカンプリントの簡単な歴史です。
ショニバレはアートカレッジ在籍中にこの布の複雑な歴史を知り、それ以来アフリカンプリントを取り入れた作品を作り続けてきました。その多くは植民地主義時代の大英帝国の事物を題材にそれらを《アフリカ的な布》でデコレーションするようなものです。そうした作品の代表的なものが2010年に英国のトラファルガー広場で公開された屋外彫刻作品『瓶の中のネルソンの船』です。巨大なボトルシップの中の船はネルソン提督の乗った旗艦ヴィクトリーで、その帆にアフリカンプリントが張られています。他ならぬトラファルガーの海戦を記念した広場で、この戦いでの勝利がきっかけでアフリカは植民地支配されることになったんですよねー、という意味合いの作品が正式に展示された事実には英国のアートへの懐の深さを感じざるをえません。リンク先記事で画像や動画が見られます。
アーティストとその作品群の解釈は複雑なものですから簡単な決めつけはできませんが、ショニバレのアフリカンプリントを使った作品に「元々アフリカ由来ではないこの布を見てアフリカっぽいとアフリカの人々自身も含めて皆んなが思ってしまうのは長く続いた植民地支配の影響ですよね」というメッセージが込められているのは間違いないと僕は思います。これはまさにポストコロニアルという言葉が表している状況そのものです。
スピヴァクというインド出身のアメリカの有名な文芸評論家はポストコロニアルな状況のことを《強姦から生まれた子ども》と表現しています。あるいはそれは毒親とその子どもの関係にもなぞらえられると思います。毒親に対して子どもが「私が現在このような状況にあるのはあなたのせいですよ」というのは意味があるかはともかく(そういう訴えをまともに聞けないから毒親は毒親なので)実に正当な主張です。
そう考えると『ヴィクトリアンダンディの日記』が地下鉄に展示されなければならなかった理由も理解できます。旧宗主国の一般市民の無数の視線に晒されながらその人々のうちに何らかの感情を引き起こすこと抜きにはこの写真はアート作品たりえなかったことでしょう。いえ正確に言うと《ポストコロニアルのアート作品》たりえなかったことでしょう。
さて、ショニバレの作品を手がかりにポストコロニアルとは何かを見てきましたが、いよいよ次にポスト-(後の)ポストコロニアルとは何か論じていきます。
《あり得なかった世界》を展示して人々の感情を揺り動かすアート作品にしていた時代は過ぎ、今は《あり得なかった世界》を描いたエンタメをそのまま受け入れることが求められる時代へと変化してきた、というのがそもそもの見立てでした。その変化の背景にある精神や考え方について考察していきたいと思います。
あと気を回しすぎかもしれませんが念のために、ここまでのポストコロニアルについての説明などはそんなにオーソドックスな見解から外していないはずですが、ここから先の論考は僕の意見なのでレポートとかでポスト・ポストコロニアルという言葉を使ったら先生に怒られる可能性がありますからそこは注意してください。
ポスト・ポストコロニアルとはどのようなものか
僕の意見ではポスト・ポストコロニアリズムとはスピヴァクの比喩をアレンジするならば《流産して生まれなかった子ども》として植民地主義を批判する立場です。より具体的には旧植民地の国の人々や先進国に住むマイノリティが、大航海時代以降の植民地主義によって可能性の芽を潰された先住民による国民国家を擬制して旧宗主国を糾弾する事、そして帝国主義による植民地支配さえなければ我が国はこんな状況であったはず、と薔薇色の現在・未来を夢想することと定義します。
言い換えると、薄汚い帝国主義の横槍がなければ生まれてきたはずの我々(=先住民による国民国家)というアイデンティティを掲げて世界と対峙するということです。
データに裏打ちされた論拠を提示できるわけではないですが、これはこの四半世紀の間にマイノリティの地位の向上が進み、さらに先進国と途上国との間のグローバルな格差が縮小したことで「どうして植民地主義は悪なのか」の認識がうつろってきた結果だと思います。
先ほどの毒親と子どもとの比喩を援用すると「私が現在こんな不幸なのはお前のせいだ」というのがポストコロニアルで「そもそもお前さえいなかったら私はもっと幸福だったはず」というのがポスト・ポストコロニアルだと言えるでしょう。
ポストコロニアルが先進国の知識人による反省も含んだインテリの理屈であるならば、ポスト・ポストコロニアルとは大衆の方から湧き起こってきた想像力だといえます。
その想像力の産物として思いつく限りで例をあげると
映画『ブラックパンサー』に描かれる超文明国家ワカンダ
インドのナショナリストが夢想する《分かたれざるインド》
地域によってはヨーロッパ由来のY染色体の割合が60%を超えるメキシコがスペインとバチカンに対して植民地支配の謝罪を要求すること
ヨーロッパ人の入植者が来なかった平行世界でありえた北米の先住民族たちによる諸国家の想像の地図
といった事物があると思います。2つ目の《分かたれざるインド》とは僕もついこの間Twitterで知った考えですが、この方の紹介通りならばずいぶんとあべこべな領土観です。しかしこういったあべこべさこそポスト・ポストコロニアルな想像力が大衆の間から生まれてきたことの証であるといえます。
記事の前半部分で取り上げたアフリカンプリントについて、実際のアフリカ諸国でこんな言説は生まれていませんが、演習問題としてポスト・ポストコロニアル的に解釈し直すならば「我々のアイデンティティの一部であるこの布の製法がインドネシアのジャワ島に起源を持つのであれば、我々の先祖が建設していたはずの国民国家はインドネシアにまでその影響力を及ぼしていたはず」という考えに至るはずです。こうしたあべこべさを生じさせるのは一体なんなのでしょう。
ポスト・ポストコロニアルな想像力を支える土台となっている歴史観、あるいは時間の感覚とは案外と我々にも馴染みのある発想だと私は考えています。すでにもう画像が視界に入っているでしょうが、セワシくんの有名な理論です。これは過去改変についての理論ですが、歴史的存在である人間の未来と過去に対する態度として見るならそれ以上の含意があります。
旧植民地の国家を構成する民族Aが船で大阪に向かっているとします。この道すじでは過去に過酷な植民地支配をされた歴史があります。しかし今から頑張ってゴール地点の大阪がより素晴らしいものになれば、つまり未来において輝かしい民族Aの国民国家を打ち立てられれば、そこから振り返って東京の時点ですでに民族Aには輝かしい国民国家を建設するポテンシャルがあったと考えられ、植民地支配という恥辱の歴史を経験しない飛行機や新幹線の道筋でも大阪へとたどりつける、という解釈ができます。
両者を比較してみることの意義
このようにポスト・ポストコロニアルとポストコロニアルの違いを整理してみることのメリットとして、現在ここが価値観のアップデートの先端に位置しているため何がポリコレなのかが混沌としている領域であることが挙げられると思います。
示唆的なのは上記の想像力の例でも挙げた映画『ブラックパンサー』がエスニックマイノリティの若者をエンパワメントしたと絶賛される一方で、劇中に植民地主義的で黒人へのステレオタイプを助長する描写があると批判もされていたことです。もし植民地支配がなかったらこんな世界だっただろうと想像するにも着想のきっかけが必要ですが、集めた素材の中にはどうしても植民地主義の残滓が紛れ込んでしまう、というのもまさにポストコロニアルな状況だといえます。そうして出来上がった表象に対して、植民地主義の影響を指摘するのが優先されるのか、多くのマイノリティを鼓舞する見映えの良さを優先するのかどっちが政治的に正しいのかは定まっていないのが現状だと言えるでしょう。
そもそもこの記事のきっかけとなったまとめにしてもインターネットの有識者が勝手に言ってるだけなので何事もなくすんでいますが、僕の感覚ではディズニーが公式に「あの映画の舞踏会のシーンで出席していた肌の色が濃い方々は植民地にルーツを持つという裏設定があります」とかコメントを出したらまあまあ炎上するだろうという予感があります。比喩にせよ事実にせよ《強姦》はポストコロニアル論の重要ワードなので白人支配者層と現地住民との「結婚」を留保なしで書くことがもう地雷と思う人もいるでしょう。
そしてここにも帝国主義時代の異人種間結婚なんて人種差別や植民地支配への反省がテーマでもない映画で軽く扱うような話題じゃないと思う人と、舞踏会のシーンに黒人がいることを多少無茶な理屈でも肯定する方が大事と思う人の間でポリコレの交通整理がまだできていないことが表れています。
リアルな国際政治の場や学問の分野ではいまだポストコロニアルの立場が正統なものであることは間違いありません。しかしこの先どうなっていくかはわかりません。国際法学者の大沼保昭氏も国際社会とは最後には実力がものをいう世界だとシビアな見方をしておられました。先進国の人口減少はさらに進むでしょうし今世紀の後半にかけて人口が増加し続けるアフリカ諸国のグローバル経済に占める存在感はますます高まっていくでしょう。経済成長によって自信をつけた旧植民地諸国が本来の自分達の実力ならば我々の国家はこのような規模であったはずと見積もる賠償金額は理屈から言って青天井になるでしょうし、それが領土の話になれば紛争の火種にもなりかねません。未来のある時点から振り返ればポストコロニアル論者は旧宗主国側にとってなんて気心の知れた批判者であったのかと懐かしく思うかもしれません。
最後に、この記事の見出しの画像は「19世紀の舞踏会で踊るアフリカ系アメリカ人を描いたルノワール風の油絵」を画像生成AIに作ってもらったものです。《あり得なかった世界》を作るのも今は僕のようなシロウトでも一瞬のうちにできてしまいます。こうした時代にポスト・ポストコロニアルな想像力がどのような変化を遂げていくのか、願わくは穏やかで幸せな未来を共に夢みていきたいものだとかつて侵略する側だった国の一市民としては思っています。