見出し画像

観劇記録「中島敦・光と風の彼方へ」劇団キンダースペース

私は私が思うほど私ではない

世界は理解されるためにあるのではない

……中島敦が繰り返し唱えるモチーフです。

劇団キンダースペースさんの『中島敦・光と風の彼方へ』を観劇しました。構成・脚本・演出は原田一樹さん。
たまたま見かけたポスターで、これは行かねば!と思い立って申しこみました。
気にかかる内容のポスターは、自然ととびこんでくるものです。

はじめての小劇場。まどなり、めのまえで繰り広げられる迫力。まどなりの俳優さんを見上げていいのかは少し迷いました。緊張状態に語感が澄みます。

中島敦の人間性に肉薄、分析して到達された近代劇でした。
怒涛のアンソロジー的演出によって、中島敦作品に一貫された抽象的な理念が浮き彫りにされました。

自我と、世界と、その往還。

分析を前提とする近代劇で、分析を拒否する中島敦の定言をどう演出するか。ひとつの方法をみました。

自分が山月記を扱うときも、そのたびに、中島敦と李徴との関係性には悩まされます。
作品論と作者論を、自分はできるだけ分けたいんだけど、いや、それにしても……。
明治の文豪たちの壮大な問いかけに、最近は僕自身が答えを出すことをあきらめ、みんなと思い悩むことをゴールにしていますが、いや、それにしても。
考えずにはいられません。

中島が読んだであろう元の中国書籍に比べると自我に焦点があがります。翻案元の作品では、愛人親子を殺して虎になりますから。獰猛さが虎へのトリガーでした。中島李徴とはある意味で真逆の人間/虎でしょう。

古潭シリーズとして通して読むと、文字の魔力/言葉の魔力の、ある意味で被害者。
「声」に呼ばれた李徴は文学に囚われ続け、「草むらからの声」として登場することになります。虎としての姿は、実は驚くほど現れない。

そして、中島敦の私小説と読むこともできる。
文位が上がらず悶々とした中島の咆哮が、見て取れないわけがない。切っても切り離せない中島と李徴の満ち引きがあります。

中島はカフカを読んでいたそうです。虫、いや、毒蟲に変身し、投げられたりんごの傷から腐って死ぬザムザ。
そのあざやかな醜さに己を投影できない中島の自我が、また垣間見えるかもしれない。


原田さんによるアフタートークによると、山月記が発表された『文學界』は開戦特集号だったそうです。数々の名だたる文豪が開戦を、残念ながら寿ぐ中に、山月記。強い意味を感じます。
(明らかに言葉をごまかす太宰治の開戦評もおもしろい)
先月号に記載された以下の語りを見よ。おぞましい。皮肉であってくれと願う。

近代が近代に終焉を終わらせうることが、実感される当時と、今。改めてしっかり読み直す価値がありそうです。

近代というものを、人間というものを考えさせてくれる演劇でした。

 混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!
 今や国民は、ものを見る眼の純一さを獲得したといっていい。(中略)生きること、見ること、働くこと、すべてが一人の人間の中で一つになり、更にこの一つが一億の国民を通じて一つであるという状態。こんな望ましい日が、こんなに率直にやって来ようとは、ついぞ想像して見なかった。

河上徹太郎「光栄ある日」(『文學界』1942 年1 月)

いいなと思ったら応援しよう!