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正義のお取り扱いにはご注意ください【ひとことお題03】

毎日「ひとことお題」、本日は『正義』
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「正義」が、いつからか怖いものに思えてしかたない。

それは自分のなかで、冷たく硬くてどうしようもなく動かしがたい、頭でっかちで意思の疎通が図れず、少しでも気を抜けば鉄槌をくだされるような、空恐ろしい審判官のように感じられている。

おそらくこのイメージは、ちかごろ頻繁にネット上で起きている、不用意な言葉を発したものや罪を犯したものに対する「正義の名のもとに」行われる断罪や執拗な弾劾によるものも大きい。

だいたい、”名のもとに”なんて表現が使えるのは、私の知る限りでは「父と子と聖霊」とか「女神イーノ・マータ」とか「マスターである僕」とかそういった圧倒的な力をもつ存在と「正義」くらいのものだ。

と考えると、「正義」とはそれ自体がすでに、なにがしか相手をねじ伏せるに足る力を持っているもののように感じられてならない。

いや、しかし一方で「正義の味方」が人を助けるという向きもある。
さらに「正義」を広げてみてみよう。

正義とは正しい義の心で、正義を行うとは正しく「義」を行うということ。「義」とは調べてみるとこんな意味を持つらしい。

人として守るべき正しい道。

goo辞書より

なんということだ。正義のなかに「正しい」が2回も重ね掛けされている。

「正しい」は人を鼓舞し背中を押してくれもする。
だが、ときに人を傷つけることもある。本の角でもガラスの大きな灰皿でも人は殴れるが、「正論」でもそれは可能なのだ。

正義は振りかざして天誅をくだすためにも使われる。
正義は貫けるもので、でも互いの正義は相容れなかったりして、そのために戦争が起きたりする。

こう並べ立ててみると「正義」はなにかものすごく硬い凶器か、不幸を招く石像かなにかのように思えてくる。間違いなく取扱注意のものである。

というわけで今回の結論としては、「正義」とはそれ自体が大きな力をもつもので、扱いによっては人を救いも殴れもする「取り扱い注意」なものである、ということになりそうだ。

くれぐれも「正義」をお取り扱いの際には、ご注意ください。


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