バンクシーを評価する人もしない人も「落書きを消すべき」と言える理由
東京都がバンクシーの「落書き」を評価した?
「バンクシーが描いたかもしれない落書きが港区で発見されたそうです」
「バンクシーといえば、イギリスを中心に風刺的ストリートアートを描いて注目されている正体不明のアーティストだな」
「東京都知事の小池百合子さんがツーショット写真を撮っていますね。どうでもいいけど服の柄がすごい」
「この行動に対して苦言を呈している人が多いな。バンクシーという世界的アーティストだったら例外的に落書きという器物損壊を許すのは、公権力を持つ側の態度として不誠実なのではないか、と」
「言われてみれば、正論ですね」
「だから、描いたのがバンクシーだろうと鶴太郎だろうと、落書きだったら粛々と消しちゃうのが公権力の役目だろう、と」
「たしかに。そんな原則も忘れて舞い上がっちゃうなんて、それ自体がバンクシーの風刺画みたいです」
バンクシーは褒められると困る
「さて。ここでバンクシー視点に立って考えてみたい。この日本で起こった騒動は、彼(彼女?)にとって嬉しいものだろうか?」
「本人は面白がってそうです。自分の落書きのせいで、公権力を始めとした多くの人々が振り回されているわけで。それが問題提起や議論を巻き起こしている時点で、目論見は成功したと言えるんじゃないですか」
「つまり、バンクシーの落書きが巻き起こす騒動それ自体が批評性を持つアートになっているということだな」
「そうですそうです」
「しかし、であれば、逆方向に考えることもできるはずだ。今回の騒動によって、逆にバンクシーのほうが批判されていると」
「落書きは違法だから?」
「そんな当たり前のレベルの話じゃない。公権力がバンクシーを認めてしまうことは、バンクシーのような表現をする者にとって脅威なのだ。なぜならバンクシーは『違法に』『ゲリラ的に』作品を描き出すことで体制からはみ出た表現の可能性を示し、そのこと自体を意義にしているアーティストだからだ」
「つまり、反体制的な違法行為によって成り立つアートなのに、権力サイドからお墨付きを貰っても嬉しくないどころか、逆に困ってしまうということですか?」
「そうだ。政府が『有名アーティストだから落書きを残そう』と言い出してしまったら、もはやバンクシーは政府に『落書き特権』を与えられたただのアーティストということになり、作家としての価値は大きく毀損される。それどころか、状況の読み方によってはもっとひどいことになる」
「というと?」
「この構造を俯瞰すると、バンクシーの価値は公権力とのマッチポンプ関係を前提にしていることが明らかになってしまうからだ。バンクシーは反体制的アーティストではなく、反体制という枠組みの中でのみ成立する芸を披露するのがうまいタレントだ、と言えてしまうのだ。政府がバンクシーを公に認めることはそんな攻撃性をはらんでいる」
「うーん?」
「もちろん、都知事をはじめ、政府がそんな意図を持って『わざと』やったわけではないと思うが、結果としてはそういうダメージをバンクシーに与えうるのだ」
ツッコまれなくてもボケは困らない
「それって、たとえるならこういうことですか? お笑い芸人のボケ役がギャグを放ったとき、周りのタレントがツッコミを入れないとボケは困ってしまう。なぜなら、ボケはツッコまれて笑いを生むためにわざとギャグを行っているから。そして、周りがツッコミを入れないと、そのことによってその仕組みが可視化され、ほんとうはボケが『わざとツッコまれるために』ギャグを放っていることがバレてしまう……」
「なるほど、規範と逸脱の闘争だと考えれば、この構造はとてもよく似ている。ツッコまれずにスベることによって、ボケ役がツッコミに依存していたことがわかる」
「でも、だとしたらおかしいですよ」
「なにが?」
「だって、お笑いのネタではこういう流れってすごくよくありますよ。ボケがおなじみのギャグを放つんだけど、わざとツッコミを入れなくて、少し間を置いて『おい、ツッコめよ!』とかボケが叫んで笑いが起こるんです。これは、ボケが結果的に笑いを起こしていますよね?」
「うーん、そうだな……」
「ツッコまれないと依存関係を見抜かれてしまってボケがスベって困るっていうけど、それはお笑いを単純化しすぎてませんかね。ボケ役は、そういう関係すらもギャグの中に組み込んでしまうことができるんですよ。バンクシーの話に戻すなら、バンクシーのアートは、公権力との依存関係をもアートの内部に組み込めるようになっているんじゃないですか。現に、今回の落書きはニュースで話題になり、あちこちで議論が巻き起こっているんだから。やっぱりバンクシーが優勢です」
「『騒動それ自体が批評性を持つアートになっている』という言葉が、ここでまた、全体を包むかたちで復活するわけだな。そしてこの『包み込み』は何度でも繰り返せる。しかし、だとすれば、バンクシーのアートなんて無限内包に頼ってる程度のもんだ、と言うこともできそうじゃないか。構造を看破されたらメタに立って全体をアートに仕立て上げて……を繰り返す、という"構造の全体"が見えてしまったとも言える」
「いや、だとしても、『現に』議論を巻き起こしているという点がバンクシーのすごいところなんじゃないでしょうか。芸人がネタの構造をいくら見抜かれようが、ウケていれば関係ないのと同じです。現に、観客を巻き込んだムーブメントを生み出している。きっと、そちらはまたこの『力』そのものを『構造』の中に組み込んで、バンクシーの価値に疑問を呈してくるのでしょうけど」
「その通りだ。そしてそっちは『それについて議論させられている』ときに働く『力』こそがバンクシーの価値だと言うのだろうな」
「議論という運動が続く限りバンクシー擁護派は有利になり、それを上から包んで俯瞰する限りバンクシー批判派は有利になる。そしてこの2つの事態は別の次元で必ず同時に起こる……」
正反対の価値観でも別のレベルで同じことを言える
「最後に話を戻すか。今回、『政府はバンクシー作品を粛々と消すべきだった』という意見が多くあった。しかし、それはある意味でバンクシーの価値を高めることでもある。なぜなら、バンクシー作品は政府が落書きを取り締まることを前提にして成り立つ反体制的アートだから」
「バンクシー作品を評価しない人は『犯罪だから』という意味で『消すべき』と言えるし、評価する人は『バンクシーに価値を与えるためには政府はこれを否定しなければならないから』という意味で『消すべき』と言えるんですね」
「その一方で、政府がバンクシー作品を公に認めることは、バンクシーにとって逆に危機でありえた」
「バンクシー作品を評価する人は『すばらしい作品だから』という意味で『これは評価すべき』と言えるし、評価しない人は『政府がこれを評価することによってバンクシー作品は存在意義を失うから』という意味で『これは評価すべき』と言えるんですね」
「全く同じ意見を、全く逆の価値観から言うことができる」
「アートと秩序とか、ボケとツッコミとか、規範と逸脱の闘争には常にこういう仕組みが隠れている気がしますね」