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皮肉で返さず相手に有用な材料を見いだす

ツイッター見てたら、ツイッターのスクショ画面を張ったツイートが流れてきた。何万RTもされている。

山間部の民家周辺にツキノワグマが降りてきてしまって危ないので猟友会が射殺した、というニュースが元。

大量のリプライがぶら下がっていて、中には動物愛護クラスタからの苦言がちらほらある。

「殺して解決する問題ではない」「射殺しか道はないのかな?」「人間が環境破壊するから民家に下りて来るのに人に被害を及ぼすから射殺?」

のような、クマ射殺に対する反感だ。
その一つ一つに

「現在、捕獲した熊を保護しています。引き取っていただけますでしょうか?」

とリプライしてまわっている人がいて、そのスクショ画像が「一撃必殺」という表現とともにバズっていた。


見たとき、まず直感的に「やだなあ」と思った。考えるより先の、なんかいやだな、という生理的反応だ。なぜそう思ったのかそのあと少し考え、以下のツイートをした。

クマが射殺されたニュースに文句をつけてる人に「クマを保護してるのですが預かってくれませんか」とリプライを送る様子が「一撃必殺」として痛快に扱われてたけど、これは単に論点がずれているだけで、動物愛護派も「クマが危険」と承知しているのは明白なんだから意味のないやり取りだと思う。

愛護派の批判は「射殺以外の対処法はないのか」「(今回、射殺するほかなかったとして)以後そのような結末にならないような環境保護に取り組めないのか」などの論点を含むのだから、なかでもアホな論点だけ取り出して反論しても仕方がない。

「熊を引き取ってくれますか」というのは、動物愛護クラスタに対する明確な皮肉だろう。殺すな? 殺さずにどうしろというのか。熊の獰猛さを甘く見ているんじゃないのか。そんなに言うんだったら、自分で熊を飼ってみろよ。ということだろう。

しかしながら、クマの射殺に苦言を呈している人たち(愛護クラスタ)がみな、クマの危険性を甘く見ているわけでもないだろう。今回の射殺について批判するとしても、論点はいくつかあるはずだ。


たとえば、殺すのではなく麻酔銃ではだめなのか、とか。

→これは、麻酔銃を撃てる人が限られているので、緊急の事案では射殺で対応するしかないらしい。

あるいは、人里と動物の暮らす森を明確に分けることで、接触の機会を減らせないのか、とか。

→実際問題として難しいらしい。


環境保全に取り組んでいる人々は、さまざまな策を講じたうえでなお射殺という選択肢を選んでいる。今回のクマ射殺に苦言を呈した愛護クラスタの多くが知識不足なのは確かだと思う。しかしそれは、かれらがクマの獰猛性を甘く見ていることとイコールではない。だから「自分で飼え」という応答は、皮肉としても芯を食っていない。

この応酬は何万もRTされているけど、相手の程度を低く見積もったうえで皮肉で返すような態度は下品だと感じる。愛護クラスタの言っていることは取るに足らないお花畑理論にすぎないという印象が強くなれば、動物愛護の姿勢について内省する機会はどんどん失われていくだろう。


相手が愚か者かどうか、などということは私にはどうでもいい。

考えるのは自分なのだから、誰の発言も自分が考えるための材料にすぎない。クズ肉を細かく刻んでハンバーグにするみたいに、一見してしょうもない意見からでも新しい観点を得ることはできる。

「論破」風のやりとりをエンターテイメントとして消費すること自体は全然いいんだけれど、やはりそれは楽しい興行にすぎない。


冒頭したツイートに「しかし彼らは、環境保全に対する具体的な取り組みを知っているのだろうか」という内容の反論が来た。

「知らないとしたら、まさにそのことを教えるべきじゃないかと思う。相手の知性を実際以上に低く見積もった反論や皮肉を送ることは、こちらがスッキリする以上の意味がない」とツイートしたところ、さらにこのような反論が来た。

「彼らは簡単に調べられることを調べない時点で、知らないことを選択している。情報の選択を行う相手に説くことは双方に有意義ではない」

彼らが無知なのは、彼らが無知でいることを選択したということなのだから、対等に対話を試みても無駄なのではないか、という意味に私は理解した。

この意見には一定の説得力がある。実際、説得を試みた相手が意見を改めてくれることは稀である。どうせ他人の意見なんか変わらないんだから、イデオロギーの断絶を極限まで深めて、互いに別世界の住人として生きていくのも、それはそれでアリだろう。


しかし本当にそれが最後の答えなんだろうか。最近の私は、どんな喧嘩腰や皮肉交じりの反論が来ても(真面目に返答しようと思っているときは)その部分を聞かなかったことにして、なるべく相手の理屈が通るように再解釈してから、普通の温度で返答するようにしている。すると、意外にも普通に丁寧な返事が返ってくることが多い。おもしろい意見が聞けることも多い。

まさに、上の太字意見がその例だったりする。

「熊を預かってくれませんか?」という皮肉を受け取った愛護クラスタは、もれなく不快な気持ちになったはずだ。もしも普通に彼らの勘違い(たとえば麻酔銃での対処が現実的ではないこと)を指摘して、そのことを怒りも勝ち誇りもしなかったら、何割かは素直に聞いてくれたんじゃないかなと思う。当人が聞き入れなくても、そのやりとりを外野から見ている人の何人かは静かに自分の勘違いを改めるかもしれない。改めなくても、反対側からの有用な反論を提示してくれるかもしれない。誰も聞き入れてくれなくても、少なくとも自分自身はさまざまな意見を内部に取り込める。

今のところ、私はまだその可能性を手放したくはない。

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品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)
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