ジャノメ食堂にようこそ!第4話 雲を喰む(1)
「雲は、食べれないのかい?」
彼がそう言ったのはアケが用意した食事を舐めるように食べ終え、食後のクロモジ茶を一口啜った時だった。
「雲・・ですか?」
彼が食べ終えた食器を片付けようとしていたアケは手を止めて蛇の目で彼を凝視する。
彼の向かいに座って今日の献立の主菜である岩魚の塩焼きを豪快に手掴み食いしていたウグイスも口を止めて首を傾げる。
アケとウグイスがそれぞれの動きを思わず止めてしまったのは彼が放った言葉が印象的だったのもあるが、それ以上に彼の外見がそんなふわっと浮かぶような事を言うようには見えなかったと言うこともあった。
それ程に彼の身体は硬く、大きく、頑強にしか見えなかった。
彼の身体は岩だった。いや、岩が身体の形をしていると言うべきなのだろうか?
頭も、胴体も、腕も、足も全てが岩で出来ており、まるで子どもが形の良い石を並べて作った人形のようであった。
唯一、頭を構成する岩に蛍のように光る二つの目と赤い舌の覗く大きな口が彼が意思のある生物であることを物語っていた。
ぬりかべ。
それが彼の種としての名前だ。
本当は別の呼び名もあるのだろうが恐らくアケには発音することも聞き取ることも出来ないのだろう。
彼が現れたのは三日前、ジャノメ食堂が開店してちょうど一週間が経とうとしていた時だ。
「邪魔するよぉ」
彼は、暖簾をくぐる時のような粋な口調で食堂に入ってきた。
突然の来客に困惑するアケを他所に彼はどんっと椅子に座ると「ここに来れば変わった食わしてくれると聞いたんでな」とこれまた粋な口調で言って肘を付いた。
話しを聞くと彼に食堂のことを教えたのは小鬼少女のようで「変わった物が食べられる」と言う言葉に釣られて来たそうだ。
「とりあえずその変わったもんってのを食わしてくれや」
そう言って岩石の顔がにっと笑った。
変わった物・・・。
突然、そんなことを言われても・・と一瞬思ったがよくよく考えればこの猫の額ではアケの作る物は全て変わった物。なら、いつも通りにすればいいだけだ。
そう思ったアケは、アズキか朝からせっせっと掘り集まめ、ウグイスの立っての要望で作った芋の煮転がしを大きな皿に乗せてぬりかべに出した。
「・・これは芋か?」
蛍のように光る目で芋の煮転がしを見る。
「はいっジャガイモを甘辛く煮詰めた物です」
ジャガイモからは食欲の食欲をそそり立つ醤油の香りが立ち昇り、ウグイスがこの場にいたら間違いなく涎を垂らしていただろう。
しかし、ぬりかべは、蛍のような目でじっと芋の煮転がしを見るだけだ。
そこから感じたのは期待外れによる軽い失望だった。
芋が嫌いだったのかな?と思い、アケは別の物にしましょうかと聞くと「いや、頂くよ」と答え、大きな指で芋を摘み、口に運んだ。
「・・・美味い」
ぬりかべは、そう言って芋をパクパク口に運んで全て平らげると「また来る」と言って去っていった。
アケは、彼の反応からしてもう来ないだろうと思った。
しかし、彼は翌日も来て「変わったものを食わせてくれい」と同じことを言って席に着いた。
その日はオモチが採ってきた青菜と小魚を炒めてご飯と混ぜたおにぎりだった。
大きなおにぎりを三つ並べて彼に出すと蛍のような目で食い入るように見た。
ああっこう言うのが食べたかったのか、とアケは思った。しかし、彼は一口おにぎりを食べた瞬間、昨日と同じ期待外れの軽い失望を浮かべた。
「・・美味い」
彼は、おにぎりを三つ食べ終えると「また来る」と言って去っていった。
そして今日。
岩魚の塩焼きを主菜とした料理を全て食べ終えた時、彼はそう言ったのだ。
雲は、食べれないのかい?、と。
アケは、窓の外を見る。
白蛇の国よりも高い猫の額の空はどこまでも澄み渡り、雲も大きく、手を伸ばせば届きそうだ。
あの雲を食べたい・・・。
彼は、そう言っているのか?
「おっちゃん、それは無理だよ」
大きな歯形のついた岩魚から口を離してウグイスは言う。その顔は姑獲鳥と言うよりも猫のようだ。
「雲なんて食べれやしないよ。あれは単なる水の塊」
ウグイスの言葉にアケは蛇の目を開く。
「そうなのですか?」
食べれないのはなんとかく分かっていたが水の塊と言う事実は初めて知った。
雨が雲から降るのもそういう理由なのか。
「そう、間違えて突っ込むと水浸しになるよ。それに味なんて全然しないし、煙みたいでつまんないよ」
あっ食べたんだ、とアケは胸中で呟いたが敢えて口には出さなかった。
「そんなもん食べるよりジャノメのご飯食べた方が数倍美味しいって」
しかし、ウグイスの言葉にぬりかべはまったく納得してなかった。むしろ硬い肩を竦め、呆れたように蛍の目でウグイスを見る。
「ロマンがねえなあ。羽っこ娘」
ぬりかべの呆れたような、得てすれば馬鹿にするような口調にウグイスの顔に苛立ちが浮かぶ。
「ロマン?」
アケは、言葉の意味が分からず首を傾げる。
「夢ってことだよ」
ぬりかべは、アケに分かりやすいよう言い換える。
「夢・・ですか?」
アケがぼそりっと言うとぬりかべは大きく頷く。
「雲を食べるのはな。おいらの夢なんだよ」
ぬりかべは、窓の外に浮かぶ雲を見る。
「身体が重過ぎて飛び跳ねることも出来ないおいらにとっちゃ空は憧れなのさ。そして空に浮かぶ雲を見ていつか食べたい、そんな夢を描いてたのさ」
ぬりかべは、冷めたクロモジ茶を飲み干す。アケが新しいのを淹れようとするが丁重に断る。
「ここは変わった物を食べさせてくれるって言うかから期待してたんだけどな」
ぬりかべは、ゆっくり椅子から立ち上がる。
「残念だ」
その声には分かりやすいくらいの失望が乗っていた。
アケの胸に何かが小さく刺さった。
「おいらの最後の願いは叶わずじまいだ」
ぬりかべは、ゆっくり歩いて窓の外に出る。
「じゃあな」
そう言って粋に手を挙げると重い足を地面に沈ませながら去っていった。
また来るとは言わなかった。
アケは、彼の大きな背中を見送る。
大きな背中がとても小さく見えた。