ジャノメ食堂へようこそ! 第1話 ジャノメ姫(1)
月って明るいんだ・・・。
狭い輿の中、側部に申し訳程度に設置された物見から覗く黄金に輝く歪みのない真円の月をを見てアケは思った。
輿の中は暗く、冷たい。
アケは、白無垢の重さと座布団すら用意されなかった板底の固さと痺れるような足の痛みに身じろぐ。
物見から入り込む夜気を乗せた風、羽ばたく大きな翼の音、宙に浮かび上がる慣れない感覚。それら自分が踏み慣れた大地を離れ、故郷を離れた空にいることを伝える。
もう・・・戻ることはない。
そう思ってもアケには何の感慨も湧いてこなかった。
19年と言う歳月を過ごした故郷であるはずなのに何の思いも込み上げてこない。
思い出だってほとんどない。
何の凹凸もない日々の記憶。帳面のように捲り上げても変化はなく、書かれているのはただ三つの言葉。
辛い。
寂しい。
死にたい。
それだけだ。
しかし、もうすぐそれも終わる。
もうすぐ到着するであろう場所に行けばそんな思いはしなくていい。
全てから解放されるのだ。
そう思うだけでアケの口元に小さな笑みが浮かんだ。
輿がゆっくりと下に降りていくのを感じる。
翼の音が少しずつ静かになっていく。
もうすぐ着く。
アケは、唾を飲み込む。
身体が強張っていくのを感じる。
(何を恐れる必要があるの?)
ようやく解放されるというのに・・・。
アケは、汗ばむ手をぎゅっと握り、輿が止まるのを待った。
重力が戻る。
右手側の側部から鍵を開ける音が幾つも聞こえる。
アケは、じっと側部を見る。
そんなに警戒しなくても空の上で逃げられる訳がないし、逃げるつもりもなかったのに。
側部がゆっくりと開かれると年配の髭を蓄えた緑色の甲冑を纏った武士の顔が見える。
「ジャノメ姫様、到着致しました」
ジャノメ姫。
その名を呼ばれると胸が締め付けられる。
涙が流れそうになる。
しかし、アケはそんな感情を全て飲み込み、平静とした表情で頷く。
「分かりました」
アケと年配の武士の目が合う。
その瞬間、武士の顔に恐怖が走り、身を引く。
見慣れ過ぎた表情。
アケは、何も感じないままに輿から出る。
本来なら白無垢に身を包んだ女性を、しかも姫と呼称する者に手を差し伸べない武士などいるはずがない。
しかし、年配の武士も、そして周りにいる武士の誰もアケに手を差し伸べない。それどころか近寄ろうともしない。
それはアケを恐れているからに他ならない。
見目麗しいアケの顔立ち。
しかし、それには2つの異質なものがあった。
一つは両目の部分を覆った白い鱗が浮かぶ布。
もう一つは額にある赤い縦長の瞳を持った大きな目。
それはまさに蛇の目であった。
アケは、蛇の目を動かして辺りを見回す。
それだけで武士の1人が小さく悲鳴を上げる。
しかし、アケは気にも留めない。
そんな声など聞き飽きているから。
そこは小さな平原であった。
柔らかな草の感触が足の裏を撫でる。
正面には広大な森が広がり、背後にはどこまでも続く暗い雲海、足元には断崖の絶壁が見えている。
それだけでここが今までアケが住んでいた場所ではなく、"猫の額"と恐れられる山の頂上であることが分かった。
「来たんだ・・・」
アケは、ぼそりと呟いた。
アケが乗ってきた豪奢な輿の四方には太い縄が結び付けられており、その縄の先には4匹の飛竜が地面に伏し、その横に緑色の甲冑を着た武士が待機している。
飛竜に縄を持たせて空を遊泳したことは知ってはいたがよくもまあ縄が切れなかったものだと感心する。いや、彼らにとっては縄が切れたところで問題などないのであろう。
アケが国に戻りさえしなければ・・・。
アケは、蛇の目を動かし、年配の武士を見る。
蛇の目に見られ、武士の顔が恐怖に引き攣る。
「あの・・・」
「何でございましょうか?」
年配の武士の声は上擦っている。
「何か履き物はありませんか?」
輿を降りてからずっと素足のままだ。
白無垢のせいで気づきにくいかもしれないけど流石に冷たくて辛い。
年配の武士の反応が一瞬止まる。そしてアケの言葉を理解すると仲間の武士に履き物を用意するように言うが誰も履き物を持っていなかった。
アケは、小さく嘆息する。
しかし、それを決して表には出さない。
感情なんて自分が出しても意味がないことは分かっているから。
「それでは姫、お達者で」
武士達は、恭しく頭を垂れし、急いで飛竜の背に乗る。
小さき声で武士達が話す。
「良かった」
「奴が来る前に帰れるな」
「ようやく疫病神が消える」
「ああっ気味悪い」
「あの目、ぞっとするぜ」
「ジャノメ姫がいなくなれば国も平和になる」
そう言って武士達は喉を押さえて笑う。
アケの耳にはしっかりと武士達の話し声が聞こえていた。
特別な力がある訳ではない。
聞き耳を立てる力がないと自分を守れなかったからだ。飛竜の1匹がアケの顔を見る。
黄色い縦目を細めて見るその様は武士達からは欠片も感じられない慰めと労りが見てとれた・・気がした。
「ありがとう」
アケは、飛竜に向かって言ったのだが、自分達に言われたと思い武士達が頭を下げる。
「貴方・・・」
アケは、年配の武士を見て声を掛ける。
「はいっ」
年配の武士は、声を震わせて返事する。
「あの子にあったら伝えて」
「あの子?」
武士は、クビを傾げる。
アケは、頷く。
「私の身と魂は全て黒狼様に捧げます。これは私の選んだこと。貴方は貴方の道を歩みなさい、と」
アケの脳裏にニコニコと可愛らしい笑みを浮かべて「姉様〜」と寄ってきた可愛い男の子が浮かぶ。
今は、立派に成長したあの子の姿が。
唯一、人生に心残りがあるとすればそれは彼に最後の別れが言えなかったことだ。
「畏まりました」
武士は、よく分からないまま頭を下げる。
そして飛竜達は翼を大きく羽ばたかせ、輿を慎重に持ちながら浮かび上がる。もうその中にはアケは乗っていないというのに何よりも丁寧に。
きっと私よりも輿の方が大事だったんだろうな、と思いながらアケは武士と飛竜が去った雲海を見ていた。
雲海の向こうから朝日がゆっくりと顔を出す。
その反対側には同じように雲海の下にその身を沈めようとする月が。
それはまるで日と月が顔を合わせて談笑しているように見えた。
アケは、草の上に膝を落として正座する。
夜気と草と土の冷たさが分厚い白無垢を通して伝わってくるが輿の中よりは遥かに心地よい。
アケは、白無垢の生地に触れる。
出立前、この白無垢が用意されていたのを見た時は何と言う皮肉だろう、どこまで自分を蔑めば気が済むのだろうと行き先のない呪いの言葉を吐きそうになったが今は感謝している。
このように外気に晒されても寒さは防げるし、何より自分の人生で決して着ることのないと思っていたものに袖を通せたのは思い返せば良かったのかもしれない。
アケは、蛇の目を閉じる。
ああっようやく終わるんだ。
黒狼が現れて、この目隠しを取れば全てが終わる。
痛みと苦しみしかなかった人生にようやく意味を持たすことが出来る。
アケは、感じた事のない多幸感に包まれながら昨日のことを思い返していた。
「猫の額に行け」
父の声を聞いたのはどれくらい振りだろう?
その声は弱々しい蝋燭の灯りに映された頑強な座敷牢の中を叩くように響いた。
アケは、固く湿気の含んだ畳の上で正座し、手を付いて頭を下げていた。
擦り切れた白い着物を纏い、乱れた長い髪で汚れた畳を掃くアケの姿はまさに虜囚か奴隷のようであった。
「猫の額・・でございますか?」
アケは、小さく顔を上げる。
その瞬間、弱々しい蝋燭に照らされた豪奢な赤い着物を着た猿のような小男と小男を取り囲む仕立ての良い着物を着た男達から小さな悲鳴が上げる。
「誰が話していいといった!」
猿のような小男、父が唾きを飛ばしながら怒鳴る。
アケは、身を竦ませて頭を下げる。
「申し訳ございません」
アケは、惨めな気持ちになった。
何故、実の父からこんな風に言われなければならないのだろう?
(この目の・・せい・・で・・)
アケは、顔を伏せたまま唇を噛み締める。
父は、ふうっと息を吐く。
「お前のせいで多くの無辜の民の命が奪われた」
アケの心臓が大きく跳ねる。
「都は城下周辺を残して破壊された。多くの武士が傷つき、民は嘆き、そして・・・」
父は、奥歯を噛み締めて呻く。
「白蛇様は深い眠りにつかれた」
アケの蛇の目が震える。
父の言葉に父を囲う男達からも怒りの感情が震え上がり、アケを睨みつける。
アケは、殴りつけられるような視線を感じながらも顔を上げない。
「お前の犯した罪は重い。どし難く重い」
父は、重々しく、憎々しく言う。
アケは、畳に手を付いたまま両手を握りしめる。
「恐れながら父上様・・・」
「勝手に話すな!」
父は、激昂する。
アケは、唇を閉じ、身を小さく縮こませる。
「あと、私を父と呼ぶな」
悍ましい、そう言わんばかりに冷たく放たれた言葉にアケは胸が締め付けられそうになる。
「私は、関白大政大臣。お前の父などではない」
「・・・畏まりました。大臣様」
アケの言葉に父は、幾分納得したように頷く。
「奴らに隙を見せ、捕まったのはお前の落ち度だ。違うか?」
「・・・仰せの通りにございます」
アケは、唇を震わせ、深く頭を下げる。
父は、冷徹にアケを見下す。
「しかし、そんなお前に罪を償う機会を与えよう」
父の口元が小さく吊り上がる。
「猫の額に行き、金色の黒狼を始末しろ」
蛇の目が震える。
「知ってるだろう?猫の額に住む金色の黒狼。かつて白蛇様と戦った忌むべき存在を」
知らない訳はない。
それは物心付いた幼児ですら知る国に伝わる伝説の存在。
白蛇様の国の民が最も恐れる存在であり、最も憎むべき敵。
"災厄"の異名を持つ化け物。
アケの身体がカタカタと震える。
「白蛇様が眠りについたことはすぐに知られることだろう。そうなれば奴は躊躇なくこの国を襲ってくる。戦う力を失った我々はなす術もなく奴に食い殺されることだろう・・・お前のせいでな」
私の・・・せい・・・。
蛇の目から小さな滴が一滴落ちる。
私の・・・せいなの?
全部・・・全部・・・私のせいなの?
こんな目になったのも?
あんなものに怯え、震えて眠れないのも?
全部・・・私のせい?
「ジャノメよ」
父は、厳かに言葉を吐く。
関白大政大臣らしい力のある言葉に周りの男達も姿勢を正す。
「明日の夜、お前を捧げ物として猫の額に連れていく」
アケは、畳に小さく爪を立てる。
「ちょうど奴への捧げ物の時期であったのも何かの運命だな」
父は、ほくそ笑む。
「お前の指名は猫の額に行き、奴の元でその目の中にいる奴を使って黒狼を殺せ」
目の中の奴・・。
アケは、両目に当たる部分を覆われた白い鱗の布を触る。
これを・・・使う。
アケは、布に爪を立てる。
男達が小さく悲鳴を上げる。
「やめよ」
父が言う。
アケは、布から手を離す。
父は、ふんっと鼻で息を吐く。
「国を壊滅させかけ、白蛇様を眠らせたそれが国を救う。皮肉なものだ」
父は、嘲るように口元を釣り上げる。
「ジャノメよ。これは天命である。その罪に塗れた魂と身体を拭う最後の機会と知れ」
「・・・畏まりました」
アケは、力なく呟き、深々と頭を下げる。
父が背を向ける。
木板をノックするように音を立てて歩き出す。
その後を男達が続いていく。
アケは、顔を上げて去っていく父の背中を見せ、唇を固く紡ぎ、震わせ、そして開く。
「あの・・・」
アケの声に父は、足を止める。
しかし、振り返らない。
言葉も出さない。
「私は・・・私は・・」
アケは、口を開くも何を言ったら分からなかった。
様々な感情が渦を巻いて胸を痛め付ける。
そしてようやく一つの言葉を口に出す。
「私は・・・アケです」
アケは、声を震わせ、絞り出す。
「ジャノメではございません」
アケの蛇の目から滴が垂れて涙となる。
「ジャノメでは・・・ございません」
切実な声。
悲痛な響き。
散々、アケを蔑んだ目で見ていた男達にすら動揺が走る。
アケは、震える手を伸ばし、あまりにも遠くにいる父の背中を掴もうとする。
「アケ」
父の言葉から小さく名前が紡がれる。
アケの心に小さな熱が灯る。
しかし、それは次の言葉で無情に凍てつく。
「それは今度、長男に生まれる子どもに付けてやる名だ」
アケの心の砕ける音が聞こえた気がした。
「それはお前の名なのではない。お前はジャノメだ。忘れるな」
そう言って父は、去っていく。
男達もそれに続いて去っていく。
悲鳴のような鳴き声が座敷牢の中に響き渡った。