ジャノメ食堂へようこそ!第4話 雲を喰む(7)
ジャノメ食堂から離れた所にある小高い丘にぬりかべは、鎮座していた。
微動だにしないその姿は本当に岩のよう。
ただ、蛍の光のような二つの目が彼が生きていることを示していた。
彼は、三日月の浮かぶ夜空に漂う雲を見た。
月明かりに映され、朧のように現実味なく心をざわつかせる雲。その美しさで言ったら夜の雲の方が上かもしれない。
しかし、ぬりかべは朝の雲の方が好きだった。
朝の光に照らされ、力強く、溌剌とし、何よりと美味そうな白い雲が。
しかし、もう見ることはない。
ぬりかべは、自分の手を見る。
ひび割れ、亀裂の走った自分の手を。
恐らく今日だ。
今日・・自分は。
ぬりかべは、ふうっと息を吐く。
「次はいつになるのかな?」
そして空を見て、雲を見て同じことが思えるのだろうか?
ぬりかべは、身体よりも重いため息を吐いた。
その時だ。
「いたあー!」
空の向こうからけたたましい叫び声が聞こえた。
三日月に重なるように緑色の影がこちらに向かって飛んでくる。
目を凝らす必要もなく分かった緑色の正体にぬりかべは、ふうっとため息を吐く。
「探したよ!ぬりかべ!」
緑色・・ウグイスは、綺麗な柳眉を釣り上げて叫ぶ。
静かな夜に何とも騒がしい。
他の夜ならいいが今日の夜は静かにして欲しい。
「なんでえ、羽っこ娘」
ぬりかべは、ふんっと鼻息を漏らして言う。
「何、その迷惑そうな感じ」
ウグイスは、形の良い唇を尖らす。
この娘に近しい造形の種ならこの仕草を可愛いと感じてホドさせるのかもしれないがあいにくとぬりかべは何も感じなかった。
「迷惑そうじゃなくて迷惑なんだよ」
ぬりかべは、吐き捨てるように言う。
「今は一人でじっと空を見てたいんだ。邪魔すんねい」
「あーっはいはいっそーですか」
ウグイスは、地面に降り立ち、興味なさそうに頭を掻く。
「おっちゃんがおセンチになってるのは分かったからさ。ジャノメが呼んでるから来てよ」
「はあっ?」
「雲を食べさせてくれるって」
ウグイスの言葉にぬりかべは、蛍色の目を瞬かせる。
この娘は今なんと言った?
雲を・・食べさせてくれる?
ぬりかべは、逡巡し、鼻で笑う。
「何を馬鹿なことを」
ぬりかべの馬鹿にした態度にウグイスの柳眉が立つ。
「ジャノメは馬鹿じゃなければ嘘も付かないよ」
「雲が食えんと言ったのはお前だろう?」
ぬりかべは、蛍のような目をきつく細める。
「とにかくおいらの最後の時間を邪魔するな。もし邪魔するなら・・」
ぬりかべの身体の周りに茶色の円が浮かぶ。
「二度と空は飛べんと思え」
ぬりかべから放たれる怒りと気迫がウグイスの身体を打つ。
しかし、ウグイスはそれに怯えることなく、逆に緑色の髪を逆立て、目を滾らす。
「上等じゃない」
ウグイスは、両手を翳す。
水色の円が展開する。
「絶対にあんたをジャノメのとこに連れてくわ」
緑色の双眸と蛍のような双眸がぶつかり合う。
二つの円の中に複雑な紋様が描かれ、力が放たれる。
その時だ。
月の光が消える。
二人の周囲にだけ巨大な影が落ちる。
二人は構えたまま顔を上げる。
二つの月が二人を見下ろす。
ぬりかべの岩の顔が歪む。
次の瞬間、ぬりかべの大きな身体がばくんっと飲まれた。