“呪術的な「而」と散在する「今」”
しかあれども、道理この一条のみにあらず。いわゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。時もし去来の相にあらずは、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。かの上山渡河の時、この玉殿朱楼を呑却せざらんや、吐却せざらんや。
——道元『正法眼蔵』第二十 有時
直線的時間でもなく、円環的時間でもなく
——「前後ありといへども、前後際断せり」
クロノス時間でもなく、カイロス時間でもない
——「いわゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」
道元をして「有時」の二字に「存在と時間」を重ねた饒舌な思惟から補助線を延ばして、「而今」の二字に潜む呪術的な時空と散在する現在を導き出そう。
現在有体過未無体ではなく、三世実有法体恒有ではないのか
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2021-04-05 15:05(UTC+0900) @TSD /TT
2021-06-26 16:47(UTC+0900) @TSD /TT